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鎌田慧
教育工場の子どもたち

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書誌

author鎌田慧
publisher講談社文庫
year1986
price390
isbn6-183829-6

目次

1本文
2抄録

履歴

editor唯野
1995-96 ?読了
1999.8.1x公開
2001.9.18修正
2020.2.25文字化け修正

その筋では著名な一冊。私も読了がはるか昔のため、ほとんど再読に近いかたちでの読書ノート化となった。折りしも日の丸・君が代が国旗・国歌になるなど、状況は何ら変わってはいないのだな――と思わせる昨今の教育をめぐる動きには、本当に悲しくなってしまう。「教師自身も含めて自主的に管理を行う教育」の姿と、教師たちの求める「物事に対する疑問を出発点とした教育」との開きは根本的な矛盾があるように思う。(なぜなら生徒にとっては学校そのものが最も身近な「社会」なのであり、そこに向かわない「素朴な疑問」などは大人にとっての都合でしかないのだから。)管理教育を行いながら授業では素朴な疑問を大切にしようとしても、それは両者の無理な接点を露呈するだけで何ら解決策とはなりえない。「全員が同じことをやって当たり前」というのに慣れて疑問を感じなくなったとき、それほど本末転倒な教育もないように思うのだが... それゆえ、本書の内容は鎌田慧の先見の明に着目するだけをもって、感想とするのにも相当の無理がある。むしろ、今日でのそれは(あまりにもできすぎた)ブラックジョークにしかなりえないだろう。

抄録

18

それは、けっして、国家、文部省の強制、というようなものでもない。あくまで学校の、校長の、教師の、子どもたちの「自主行動」なのである。「自主管理」がひとつの運動となり、それを率先する教師と子どもが生まれる。しかし、「自主管理」に反対する方が、強権に反対するよりもむずかしい。仲間うちの異端者になってしまうからである。落ちこぼれは認められない。こうして、教師たちは、自主的に長髪を切り、子どもたちは自主的に坊主頭になる。

本書を通じて指摘されているのが、この「自主的な管理」という風潮であり、そのことの恐ろしさである。「強制されて」という部分を巧みに覆い隠し、管理そのものを自主的に行わせてしまう教育――はそれ自体が恐い話であるが、実はそれが事実として存在しているということによって二重の恐い話となる。それは著者自身も言及しているように 『1984年』 の世界とどれほどの違いがあるというのだろうか...

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