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高村薫
続 閑人生生
平成雑記帳2009-2011

ガイド

作家的時評集とほぼ同じ

書誌

author高村薫
publisher朝日文庫
year2011
price640+tax
isbn978-4-02-261714-9

目次

1本文
2抄録

履歴

editor唯野
2025.5.20読了
2025.5.31公開

作家的時評集に対して内容的にも時期的にも重なっており、ちょうど東日本大震災の発生直後くらいまでが扱われている。自民党の下野への期待、しかしながら民主党政権への失望という辺りは、当時の日本人ならだいたい共通する感覚ではなかろうか。

そのため読後感も概ね同じ感じではあるのだが、『作家的時評集 2008-2013』でも取り上げたように、含蓄に富んだ文章も少なくない。同じように少し引用するが、例えば、下のp148における政治家の常軌を逸した奔放な発言も、それを是認する国民がいるからこそ成り立つのであり、その意味では国民の側にも責任があるとする著者の態度は正しいと思う。 そして、その状況は現在ではさらにひどくなっているという他ない。

タバコやアルコールを擁護する気はないが、ここへ来て私たちはまた一つ、大人と子どもの世界を分ける徴を失ったという思いを強くする。社会的な通過儀礼をもたず、性の禁忌をもたず、もとよりどんな年齢制限もないネット社会に生きる私たちは、いったい何を目印にして大人になるのだろうか。-/-もはや衣、食、性、娯楽、価値観のあらゆる面で子どもと大人の境は消えた。これが進歩を前提にしていた近代の超克というやつなら、なるほど、大人の徴としてのタバコの出番などは確かに終わったということになるが、さてそうして消えたのは大人なのか、子どもなのか。(p.121)

ともあれ、こうした本音社会は、端的に、人が欲望をむき出しにして富や権力を貪る社会である。そこでは、弱者も弱者なりにより有利な状況を求めて権力になびくか、群れることで数の力を行使するかのどちらかである。ネットも世論も、すべて私人の本音だというところにその威力があるのである。

-/-ひるがえって、この国では公人から私人まで、ところかまわず本音をまき散らし、政治という公共の場がもはや存在しないかのようである。本音はもちろん欲望の別名であり、欲望は刹那に生起するものだから、前後の整合性などはもたない。他者や全体への視線もない。恥ずかしげもなく本音をまき散らす政治家に、真に公共を語る資格がない所以である。(p.148)

抄録

12

こうして、ふつうなら体力の衰えを感じて行動範囲が狭まるはずの六十代が、若い人でも簡単には登れない二、三千メートルの山々へ、大挙して出かけてゆく。ときに命をも賭けて山頂を征服する特殊な営為としての登山と、自然回帰や健康のためのレクリエーションとしての登山の区別が、いまや失われたということだが、もちろん自然の側の脅威が減ったのではない。-

17

けれども、それ自体はどこまでも自然現象である。山の麓に道路が走り、山を背にして人が住んでいるとき、それは初めて災害になる。国土の九割が山という日本で、古来人が山を切り開いて集落を築いてきたのは、裏返せば、たまに起こる山崩れや土石流が、人の生活にとって許容範囲に収まっていたことを意味している。-/-

23

-/-なぜなら、相対的な殺意の強さや、犯行の残酷さの程度を決めるのは、職業裁判官でも最終的には主観であって、主観で決めるほかないこと、そのことに、人が人を裁くことの最大の困難があるからである。