ロジェ・カイヨワ
聖なるものの社会学
ガイド
書誌
author | ロジェ・カイヨワ |
editor | 内藤莞爾(訳) |
publisher | ちくま学芸文庫 |
year | 2000 |
price | 950+tax |
isbn | 480-08550-5 |
履歴
editor | 唯野 |
2002.12.6 | 読了 |
2002.12.11 | 公開 |
2002.12.14 | 修正 |
2020.2.25 | 文字化け修正 |
なかなかおもしろかった。聖と俗というのは社会学でも基本的なテーマのひとつだが、だからといって通俗的な切り口をした本ではなく、現代における聖性というものを独特に読み解いている。その姿勢を端的にいえば、本書の冒頭で著者が以下のように述べている通りである。
《聖》の領域は、いわゆる宗教的な世界だけにかぎらない。たったひとつのことでも、これがおわかりになると思う。神を信じないたくさんの人たちにも、はげしい聖の意識といったものがある。ただかれらは、これを別のものに向けるだけのことである。だいたいこんにちの社会は、ひろくまた強く俗化した社会だといってよい。そこでは宗教は、ますます内心の問題になろうとしている。-/- (p9)
そこで本書では、具体的に死を戯画化するアメリカ映画、ラテンアメリカでの賭博、ヒトラーのカリスマ、近代の戦争を取り上げ、そこに新しいかたちでの聖の姿を模索しつつ論旨を展開する――というかたちになっている。cf.270
個人的に最も興味深かったのはヒトラーのカリスマを読み解いた部分で、ヒトラーを単なる独裁者というくくり方ではなく、聖性という意味では周りによって作られた存在(周囲の熱狂が聖性と化していく部分)に重きを置いた考察というのがよかった。というのも、ファシズムをファシズムとしてだけで、ヒトラーを単なる狂人とするだけでは何ら読み解いたことにはならない。やはり重要なのは、そこでのファシズムを容認し支持・熱狂した一般市民の側を含めた関係にあると思うからである。
また、本書の半分を占める最後の戦争に関してであるが、よくいわれているナポレオンによる近代国家のための国民皆兵、その結果としての総力戦という特徴を下敷きにしながら、非日常空間である「祭」に通じる部分を戦争に求め、その共通部分をそこでの聖性とする議論を展開している。ここで私が関心を持ったのは以前に読んだロレンスの 『現代人は愛しうるか』 で掲げられていた命題、即ち「近代人にとっての全体性を回復する機会」としてカイヨワの説く「戦争」がひとつの回答になっているのではないか――という点だった。なぜなら、カイヨワはそのような聖性ゆえに近代人にとっての戦争は不可避的なものであると述べており、それこそがそのまま近代人の日常には欠けるであろう「全体性を回復する機会」としても一致してくるように感じたからである。
抄録
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といったわけで、いろいろな観察者も、その言わんとするところは一致してくる。すなわち(アメリカでは:唯野注)死をごまかすこと、悲哀と神秘とを強調しないこと、儀式をやめること、みなを無邪気で快活な気持にさせることが、それである。ひとことで言うと、
死にもかかわらず 、生きている人を悲しませないようにすることである。
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つまりこの形での図示が、共同体にまつわる本質的な価値を保証し、また高揚してくれる。または、じかにそれをはっきりさせ、権威づけてくれる。映画が立派にひとつの神話学として通用するゆえんであろう。しかしなおこれがまったく俗的にとどまるならば、それは映画が権威づけ、引立てようとしている価値そのものが、まったく俗的なためである。もちろんこうしたことは、近代文明が提示する根本問題なのだが、まずアメリカ合衆国の問題としてよいであろう。だいたいひとつの文明は、はたして聖の感情に拠ることなしに、存続できるものであるかどうか。もともと聖をできるだけ排除しようとする文明で、この聖がどんなマスクをとって現われるのであろうか。