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ミヒャエル・エンデ
エンデ全集10
夢のボロ市・ハーメルンの死の舞踏
真夜中に小声でうたう

ガイド

書誌

authorミヒャエル・エンデ
editor佐藤真理子,子安美知子,丘沢静也(訳)
publisher岩波書店
year1997
price2,400+tax
isbn0-092050-2

目次

1本文
2抄録

履歴

editor唯野
2000.11.4読了
2000.11.5公開
2001.10.27修正
2020.2.25文字化け修正

リートを集めた「夢のボロ市」と戯曲「ハーメルンの死の舞踏」からなる一冊。リートとは著者が前書きで触れているように、フランスならシャンソン、スペインではカント、イングランドではソング、イタリアではカンツォーネなどと呼ばれているもののことで、詩人たちの書いた歌のことである。前者はそれゆえ韻の踏み方にこだわった内容のものが多い。私にはあまりそういう方面の素養がないので、そのよしあしも分かりようがないのだが、全体的にいって叙情的なものが多いとはいえるように思う。(そういうものなのかどうかも確証があるわけではないのだが...)それでも、気になった作品を挙げてみると、姿なき者は誰からも愛されないという「透明人間」、表題通りの「愛の夢」、青春の悲哀を説く「夜の雨のバラード」、人形との対話を歌う「レディとマリオネット」、今日的な死神の姿を描く「死の舞踏」、夢の漁師を扱った「夢漁師」などだった。ここでは表題作でもある「夢のボロ市」と「別世界の歌」を引用しておこうと思う。

一方、後者は題名からも分かる通り「ハーメルンの笛吹き男」をモチーフにエンデなりの解釈を加えたもので、近代資本主義への痛烈な批判を含んだものとなっている。この解説に阿部謹也の出てくる辺りはさすがというか、期待通りという感じであるが、逆にいうと作品そのものについての解説にはあまり触れられていない。一応の説明だけしておくと、「死の舞踏」はペストや疫病のことを指し、鼠を退治した笛吹きに約束が果されなかったため、笛吹きが子どもを連れ去ってしまうというのが元の故事(1284)となる。これがゲーテやヒトラーに至るまでデマゴーグなり何なりとして利用されてきた系譜は解説の方に譲るが、笛吹きが子どもを連れ去ってしまう動機として大王鼠を崇める町の富裕者層の黒ミサとそれの作り出す金貨という寓意がエンデのオリジナリティということのようである。

追記

ところで、最近読んだ 『人月の神話』 という本の解説の中でお金の黒魔術性に関する興味深い箇所があったので捕捉しておこうと思います。おもしろいのはお金の持つ偶有的(アクシデンタル)価値が本質的(エッセンシャル)価値として混同されているという下りです。「他人の価値だと思うものが価値になる」という部分こそが黒魔術的なのだというのは「なるほどな」と思います。そして、その価値観の貧困は教育に行き着き、貨幣価値の抱く「成長」の持つ意味もまた同様なのだと説いています。つまり、有限の地球に成長を強いる存在としての金融システムもまた黒魔術なのだということです。これは一考に値するのではないでしょうか。(2001.7.21)

抄録

79-80 夢のボロ市

きょう、夢のボロ市へ行ってみた。
世界のはじっこにあって、いろんなものがあった
盗まれたもの、投げ捨てられたもの、壊れたもの、
中古の、そしてそのまた中古の夢の品。
空飛ぶ絨毯はイガの穴だらけ、
でこぼこの光輪は、星とおさげ髪、
鍵のない空中楼閣は、錆でボロボロ、
昔かわいがられていた人形も、今は首がない……

そしてそんなガラクタたちのなかに、突然、
ぼくらの愛の、美しい夢も発見したのだ。
その黄金色は曇っていて、夢は壊れていたけれども、
黄金のようにすばらしく――そしてあいかわらず美しかった。
できればそれをきみに返したいと思って、
蒼ざめた男に尋ねてみた。
にやりと歯のない口をあけ、男はぼくを見つめ、咳ばらいして、
恥知らずな値段を吹っかけてきた。

なるほどそれだけの価値はある――けれどもぼくは交渉した。
敵はだまっていた、が、折れなかった。
だから夢は買いもどせなかった。
風向きがよくないんだ。もうそんなに豊かじゃないんだ。
結局すごすご手ぶらで引き返したが、
ひとつ知りたいことがあった。
あれは贈られたのか――盗まれたのか――投げ捨てられたのか ?
ねえ、きみ、教えて――どうやってあの夢があそこにまぎれこんだのか ?

178-179 別世界の歌

別世界には湖があります、
その湖で、すべての涙がひとつになります、
だれかが流すべきだったのに、