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田中知事の不信任決議と再選を考える

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editor唯野
2002.10.6公開
2003.10.23修正

既に旧聞に属する話のような気もしないではないが書いておこうと思う。扱うのは表題にもある通り、田中康夫長野県知事の県議会による不信任決議とその後の知事選での再選とについてである。

まず、失職に至る経緯だが、県議会側の無定見ぶりは強調されて然るべきだろう。もともと長野県では田中康夫が知事に選ばれるまで、吉村午良(ごろう)が 5 期 20 年にわたって長野県の舵取りをしていた。この人は長野にオリンピックをということでその後半の再選を重ねたのであるが、招致期の不明朗な会計疑惑(書類を燃やしてしまいましたで済む話ならば、そもそも会計などいらないではないか :-P)に限らず、その後始末をこそせずに「勇退」した人物である。

これは以前、友人と冗談混じりに話したことだが、20 年というのは非常に長い時間だ。というのも、それはその年に生まれた子供が成人するまで為政者の変わらないようなものだからである。それゆえ、そのような状況が文字通り当り前となってしまった長野県において、知事だけが代わっても軋轢しか生まないであろうことは想像に難くない。もっといえば、それだけ土建体質が当たり前となってしまった土地において(オリンピックなどは、まさにその意味においても最大の「祭典」であろう)、「脱ダム」は抵抗されて当り前なのである。たとえ、世界的な潮流が既に脱ダムであったとしてもである。

県議会側がせめて田中康夫に一矢報いようとしたのかどうか定かではないが、それが逆効果にしかならないことすら見抜けないのでは、彼らが県民よりも自分たちのことしか考えていないといわれても反論はできまい。奇しくも、いずれも県民によって選出された存在ではあるが、そのしたたかさには雲泥の差がある。(「しなやかさ」という以前の「したたかさ」が違うのだ。)例えば、今回の知事選において田中康夫は知事選のみを行い、県議会選挙とのダブル選挙とはしなかった。私にいわせれば、そうやって自分にとっての一方的な状況を生まない一種のバランス感覚にこそ注目したいと思う。なぜなら、彼のような異端が突出すれば太田沖縄県知事なり辻元清美のような顛末しかたどらないように思うからだ。

それゆえ大方の予想通り田中康夫の圧勝は中学生にでも分かる結果だったのであるが、それにしては腑に落ちないのは選挙期間中のマスコミの対応についてである。本来ならば、今の日本の諸悪の根源のひとつである地方自治体の公共事業依存体質とそれによる与党の集票構造にメスを入れた田中康夫は全面的に援護されて然るべきだと思うのだが、むしろ田中批判の方が目立ったのはなぜか ?

これも私にいわせれば、既に日本の主要なマスコミも県議会側と同じ穴のムジナに化しているということだ。田中知事は失職以前に県庁での記者クラブ廃止という非常に意義のあることをやっている。残念ながらこれは大きく報じられていないことだが(その一点からも推して知るべきなのだが)、今の日本のマスコミの置かれている状況を考えるとき、このことの放つ意味は非常に大きい。そして、それを厳粛に受け止めるなり既存の体質を改めようとしない時点で、現在のこの国のマスコミの実情についてはいわずもながであろう。

更にいえば民主党のふがいなさも指摘されなければならない。先日の党首選の茶番はむろんのこととして、長野県は地元代議士としては初めて首相になった羽田牧のお膝元であり(といってもたかだか 2 か月なのは周知の通り :-P)、民主党の動向にも注目が集まっていた。いうまでもなく、民主党が本当に今の日本を変えるというのであれば、田中康夫支持に回るくらいのことをしないと何のための野党か分からないし、インパクトにも欠けるからである。しかしながら、注目を集めていながら自主投票という程度の線しか示せないのでは、文字通り内実が疑われても仕方がない。これならば、55 年体制下での社会党の方が抵抗勢力としては機能していたのではないかといいたくなる体たらくである。

むろん、田中康夫にも欠点はある。その公務以外での露出度の高さ、タレント的な自己中心性などは私も問題だと思う。しかし、そのような面のあるおかげで、通常の政治家にとってのスキャンダルがスキャンダルとならない特性を考えると一概に否定だけもできない。

私としてはむしろ田中康夫が将来のことをどれだけ考えているかの方が気になる。それは田中康夫の次の知事ということだ。私は田中知事がいかに意義のある存在であろうとも、上述した通り 10 年、20 年も知事をやって欲しいとは思わない。だから重要なのは、これら改革の姿勢を一過性のものとさせない基盤作りなり意識の浸透であると考えている。もちろん、それは県民の側での勉強も必要不可欠だが、というのも結局のところ脱ダムひとつ取っても、それは 2-3 年などというスパンでどうにかなるというようなものではないからだ。

今回の選挙において田中康夫は「長野県を夜明け前に戻すな」といっていた。なるほど、長野の文豪、島崎藤村の代表的な小説にかけた謳い文句としてはなかなか奮っている。しかし、本当に夜明け前を脱したとは私は思っていないし、それが田中康夫ひとりで達成されるとも思ってはいない。それゆえ、田中康夫が現在だけに注視しないこと、また県民の側でもそれを前提とした「長野モデル」を支持するだけの理解があるのかどうかということ。恐らく彼の今度の任期において本当に問われるべきはそこではなかろうか。

# その意味でもオリジナルの『夜明け前』の結末は示唆的ではあります