必ず当たる占いとは
今の世の中、「占い」はいつでも人気です。占いのない朝のニュース番組、週刊誌などはないものを探す方が難しいというほどに一般的なものとなりました。そのくらいに日常生活の側で常にある「占い」ですが、そもそも「占い」とは今日の我々にとって何のためにあるのでしょう ?
「いうまでもなく当たるためだ」というのが一般的な答えかもしれません。そして、「当たれば当たるほどすごい占いである」と。こんな問い自体が野暮だとの声さえ聞こえてきそうです。
しかしながら、当たりすぎる占いというものは実は極めて窮屈なものです。例えば、ある人が新興宗教に熱を入れて、そこでの占いを信じ行動するようになったとします。すると、その人は「当たる占い」を手に入れることで、実は「安心感」を手に入れています。なぜなら、その本質は「心の中の不安が実行される前にポジティブな結果として用意される = 迷いを断ち切っている」というところに行き着くからです。(それが来世としてのものであれ、最終的にはポジティブなものとして示されるからです。)もとよりイデオロギー全般(宗教や哲学など)に、個人の抱える何らかの不安を救済するという側面があるのは事実です。しかしながら、昨今での「当たる占い」が give & take しているものは、そういう意味での(「人生いかに生くべきか」というような)ものばかりではないでしょう。それは端的にいうならば「安心感と自己の意思」なのだと私は思います。それは、もっといえば本人にとっての行動の因果が内に発するか外に発するかということであり、近代人が(中世社会と比べて)何を手に入れたのかということです。
個人の決定することには、それが個人の決定することであるがゆえの不確定的要素というものが必ずつきまといます。それゆえ、近代人にとっての「決定に対する不安」は初めから *なくすことのできない* 要素なのであって、それに対処する術も結局は限られてくるということができます。つまりは、それを承知の上で自己の意思を尊重するか、自己の意思の問題を外部に委ねることで責任も外部のものにするか、或いはそれ自体に無自覚となることで問題そのものをなくすか――等々。もちろん、ある特定の方法だけを採用する人間などありえませんが(やろうとする人はいるのでしょうけれども)、占いにせよ新興宗教にせよ、*それこそが* 現代において心の隙間を埋めようとするもろもろのものの第一の効能なのだろうと私は考えます。
「癒し」だとか「AC(アダルトチルドレン)」という言葉を私が好きでない理由も突き詰めていくと、つまりは上記のようなところへ行き着くのでしょう。つまりは、「当たりすぎる占い」が気味悪く感じられるかどうかということです。もちろん、多くの占いなどというものは他愛のない、ゲーム的なものだとは思います。しかしながら、「癒し」はその時点で「癒される」ことを期待している存在なのであり、そういう「受身的な媒体」というものに対して個人がどこまで自覚的であるのか、ということは現代人にとって極めて重要なことだと私は思うのです。それゆえ、占いというものは次のようにもいうことができます。即ち、「占い」は当たることを目的とされているが、実は滅多に当らないからこそ存在意義(我々自身による選択の余地)があるのだということです。