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テロを必要とする世紀

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editor唯野
2002.4.22公開
2002.4.29修正
2020.2.25文字化け修正

昨年 9.11 の米国同時多発テロ、その後の米軍によるアフガンでの対テロを大義名分とした戦争は、最近の中東情勢の緊迫化により、早くも忘れ去られようとしている。しかし、私から見ると、これはどうにも終りというよりは「テロを必要とする世紀」に対する序章としか思えない。書くべきか迷ったテーマではあるのだが、以下、思ったことを綴ってみたい。

まず、9.11 以降において考えさせられたのは、米国が極めて安易にテロへの報復論調でまとまり、戦争を肯定した点である。これはまず世論がそうであったし、主要なマスコミもそうであった。バークレーのような立場が逆に全米から批判を浴びるというのは、個人的に明らかに行き過ぎとしか思えなかったが、これが戦争における全体主義的風潮かと思えば納得できないでもない。それゆえ、これがベトナム戦争と大きく異なる点なのだが、米軍は世論の後押しを受けた上で戦争を遂行することができた。つまり、米国の世論は 20 世紀的な戦争とはタイプの異なる、対テロ戦争は肯定したのである。たとえ、それが米国自身の推し進めるグローバリズムが遠因のひとつであったとしても――である。

次に、冷戦終結以降の米国の軍需産業を考えてみる。当然だが、対テロ戦争のおかげで縮小傾向ばかり続いていた軍産複合体は息を吹き返した。そして、対テロという言葉は、国民の情報管理という管理社会化の道にも大義名分の与える状況を生んでいる。もちろん、テロリズムはいかなる理由としても許されるものではない。よくいわれるようにテロは新たなテロしか生まないからである。しかし、テロリズムを許さないことと、軍備が拡大され個人の自由が制限されてよいかどうかは別問題である。なぜなら、前者と後者ではそれによって利益を受ける人間が異なるためである。

冷戦終結以降、別にアメリカに限ったことではないが軍隊というものは、それも組織である以上(むしろ、軍隊というものは極めて組織というカテゴリにおいて、本来の意味に最も忠実な組織というべきだが)、自らの生き残る方策というものを常に模索し続けてきたはずである。湾岸戦争における戦争のゲームのような演出もそのひとつであろうし、ユーゴ紛争への介入における口実とそのために行われた演出を見ても、端的にそれは現れている。しかし、彼らは今では安堵しているはずだ。なぜなら、対テロという名の極めて便利な理由、それも国民の支持さえ得られる理由を見つけたのだから。

表題に示した「テロを必要とする世紀」というのは、そういう意味である。つまり、21 世紀が 20 世紀の「戦争の世紀」に対する「テロの世紀」だというのは間違ってはいないが、言葉としては不十分ということである。それは既に述べてきたように、そこではイデオロギーというタガが外れたことによる民族問題・宗教問題の諸々がテロとして顕在化するというだけでなく、その鎮圧を口実として既存の国民国家の軍隊・治安組織にも存在理由が与えられるためである。それは仮想敵国などなくても姿の見えないテロリストで十分ということであり、敵がいなければ存在意義を失ってしまう軍隊にとって、逆にテロリズムが彼らにとって前面からの存在意義を持ち出し始めたということである。

だから「アメリカは今回のテロをあえて見過ごしたのだ」などいう解釈は、この意味においてこそ真実味を持つ。むろん、当局は絶対にそんなことを明示したりはしない。常に犠牲となる市民を守るためという主張を錦の御旗として掲げるだろう。そして、それは他の国々――日本も例外ではあるまい。有事法制の準備が着々と進められている状況を見る限り、当然ながら上述の口実がその大義名分として持ち出されるであろうことは想像に難くない。もっといえば、有事法制の最後の一線(即ち、その法制化及び改憲)を越えるために、日本でこそテロが予防されるのではなく、あえて見過ごされてもおかしくはない。

もちろん、それは考え過ぎの類の仮定ではある。しかし、近年の与党が何を口実としてこの手の既成事実を積み上げてきたのかを考えれば、あまり一笑に付して済ませられる話題でもないだろう。実は、何よりも恐ろしいのは見過ごされたかどうかにあるのではない。本当に指摘されなければならないのは、その如何にかかわらず、ひとたびテロが起れば対テロ戦争論者にとっては都合のよい方向に世論が動くという点であり、(米国での動きを見る限り)それがそれの肯定する国民自身によって作られていくという点にこそあるからである。

それゆえ、私が既成の革新・護憲勢力、もっといえば NGO などに欠けており、早急に理論武装すべきだと考えるのは、このような「国家による対テロを口実とした軍拡の肯定/自由の制限」に対抗するための新たな論理である。単純に戦争反対を唱えているだけでは、既にそれを推進しているテロ戦争肯定論者には勝てない。彼らが冷戦後における新しい戦争のための論理を用いているのに対し、反対勢力は発想の時点で冷戦時代のままなのだから当然である。

私からいえるのは、上述しているように「テロリズムを許さないことと、軍備が拡大され個人の自由が制限されてよいかどうかは別問題である」ということだ。そして「それは利益を受ける人間が異なるから」と書いた。即ち、テロ対策が国民のためと称しながら、その内実が国民によってチェックできないものならば、それは瞬時にして管理社会のための道具にもなりえるという点である。そこを曖昧にすると「テロを必要とする世紀」が限りなく夜警国家としての世紀、オーウェルの描くような世界に重なってきたとしても、何ら不思議ではないということである。

# 太字を導入してみました :-)