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未来への距離感覚

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editor唯野
1999.11.29公開
2000.12.10修正

世紀末なご時世です。キリストの生誕が西暦 0 年でないのにもかかわらず、ミレニアムなお祭りが、コンピュータの 2000 年問題を覆うかのような勢いで(特に欧米では)脚光を集めています。ところが、そういう雰囲気に欠くべからざるもののひとつが、このミレニアムにはありません。それは何なのかというと「明るい未来像」です。

これは、わずか数十年前が示す未来像というものに比較してみれば、よく分かると思います。そこでは未来学者と呼ばれる人々がいて、来るべき高度情報化社会、宇宙時代といった世界が示されていました。199x 年は眼前のことではなく、はるかに遠い、そう、当時から見れば「十分に未来といえる」時代でした。だからこそ『2001 年宇宙の旅』はフィクションではあったけれども、2001 年にはそうなっていてもおかしくはないという意味でのフィクションでしたし、一方で『北斗の拳』のような核戦争後の弱肉強食な世界を示すときでも 199x 年という「世紀末」はある種のリアリティを持っていた(持ちえた)のです。

それでは翻って、現在という 199x も終わろうとしている世界ではどうでしょうか。確かに冷戦は終わりましたし、おかげで(?)核戦争も起こりませんでした。しかしながら、それは同時にイデオロギーというものの破綻ももたらし、思想や主義が世界を(もっといえば未来を)示せなくなった時代ということも意味しています。もちろん、地に足の付かない未来の図示でも意味はありませんが、不透明さだけの残る千年紀というのも奇妙な感じが私はします。それはノストラダムスの予言が「世紀末」という言葉の魔力によって力を得て、それが周知のような結果を招いたことによる残滓しか残っていないような雰囲気、もっといえば「空騒ぎ」に近いのではないか、ということです。

それゆえに、私は時代というものがそれぞれに持っているのであろう「未来時間」というものに関心があります。それは、ある時代の人間にとっての「何かが違う未来」とは、どのくらい先のことを指しているのかということです。そして、恐らくそれは活気のある社会ほど短く、そうでない社会ほど長い時間となるのでしょう。更にいえば、(ちゃんと調べたわけではありませんので一概にはいえませんが)先に取り上げたような *フィクションがフィクションとなりえる時間軸* というものからも見ることができるのではないかと思います。

確かに現代というのは単純に「文明 = 善である」ということはいいにくくなりました。もちろん、進歩主義もとっくに(イデオロギーのひとつとして)破綻しています。世界はこれだけグローバルになったのに、相対主義の広がりは逆の世界しか示していないかのようにも見えます。...というわけで質問です。あなたの社会、あなた自身にとっての「何かが違う未来」とは、どれくらい先の時間ですか ?