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個性化の功徳

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editor唯野
1998.9.17公開
2000.12.10修正

よくいわれることですが、要するに現代というのは個人が個人主義に走っていったときに、そうやって自分らしさなるものを追求すればするほど、対象としての普遍的なもの/多くの人々の間で共有されてきたものと決別してきたわけです。もっといえば、個人が自分だけのものを手に入れたとき、それを確認したくても誰もが自分だけのものを追求してしまっているから、普遍性の中でそれを確認することができない。というのも、あるのは相対化された個別の事象とそれを追認してくれる他人だけだからです。だから、それを全体っぽく見せるのがマスコミということになります。

ロックシンガーは若者が自分らしさを獲得できないんだと叫び、学校の先生だって個性化、個性化というわけですが、それだって私にいわせれば、今は既にそれがマイノリティゆえの抑圧から出発しているような時代ではありません。なぜならば、建前としての個性化は社会から容認されているからです。(それを戦後の民主主義ともいいますが。)だから、そういう社会の中では逆にマイノリティ(被抑圧者)であることが、ひとつの自己主張のための手段、即ちアイデンティティとなってしまうような逆転現象が起こります。教育状況などから若者を類型化し、された側がそう振る舞うというのは、この系譜です。○○症候群だとか、○○シンドローム、最近であれば新人類であるとかアダルト・チルドレンなどがそうです。そういう意味での「不幸」なはずの傷を持つことがポジティブな意味でのアイデンティティとなり得てしまう状況が既に一般化してしているように私は思います。

この差異は、不幸を他人に確認されたがっているかどうか、で判断が可能でしょう。その意味において90年代は「不幸」さえも資本主義(商売)の対象にしてしまった時代ともいえるように思います。テレビやベストセラーの傾向に象徴されるような(やらせが多かったとしても)このような不幸が娯楽たり得るとでもいうべき時代の雰囲気は我が国の豊かさも「行きつくところまで来たのだろうか」と思わせるだけのものがあります。世紀末的状況とは、こういうものをいうのかもしれません。

ですから、個性化と口でいうのは簡単なのですが、それゆえにこそ「したから何なの ?」というような疑問が私の中では強くあります。行き着き方こそ違え、こういう意見というのは過去にもよくいわれていることですが、そういった状況にありながらも、なぜか個性化のかけ声だけは繰り返されていて、それが正しいにしろ悪いにしろ(それだって個人の判断に委ねられるわけですから)そのまま受け入れられているのが現状だからです。それは、個性化ゆえの悲劇の一端ということになります。つまり、個性化の推進は声高にいわれているのだが、その後がない。恐らく文化の先端を行こうとするのであれば、これさえも外していく/ひねっていくのが「かっこいい」のかもしれませんが、限りない個性化の果てに待つもののことを考えたとき、その中身を問わないと所詮はその「個性化」も中途半端なポーズだけで終わってしまうように思えるのです。

いいかえるのであれば、「消費が記号化される」というのは、まさしくこの視点においてこそ、そうなのだといえるでしょう。それが記号化されているからこそ、ものごとの「意味」もファッションたりえるし交換が可能になっている。交換可能だからこそ、それは更なるファッションとしての差違化を促進するという相乗結果を生むともいえるからです。

うがった見方をすればこうなります。即ち、そこにおいては差違そのものも記号化されてしまっている。かくして世の中全体のゲーム的雰囲気は醸成される...と。