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受託慣れ

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editor唯野
2002.3.22公開
2002.4.26修正
2020.2.25文字化け修正

CQ 出版社の Interface 誌 で私がいつも一番最初に読むのは「フジワラヒロタツの現場検証」という漫画 + エッセイの記事だが、同誌の 2002 年 1 月号で「よりぬき版」として小冊子が付いてきた。まとめて読み返して考えさせられたことがあったので書いてみたい。(ちなみに上記リンクからたどれば、最近の同記事のバックナンバーなどを読むことができる。)

それは表題にもあるように「受託慣れ」というものである。むろん、一口にソフトウェア開発といっても言語・手法は様々だ。しかし、それはあくまでも目的に対する手段の多様性に過ぎない。そうではなくて私がいいたいのは記事中でいう「恐ろしいことには、受託でソフト製品をつくっていると、どうやらそこに安住してしまう」という点である。そして、私自身の場合を振り返ってみると、なるほど実際の作業の中ではできる限りの提案や自発的なツールの作成などをやっているつもりかもしれないが、それを取り巻くより大きな立場からの視点が欠けていることに気付かされたのである。もっといえば、以前は持っていたはずなのに最近では近眼的な立場での思考に終始していた――ということである。

記事は続けてこう書いている。「受託開発のさらに恐ろしい点は、仕様書通りに「作品」を作ることに慣らされ、自分で仕様を作る喜びを味わえないだけでなく、仕様書通りに最短の工数で「作品」を仕上げることだけに熟達し、「作品」を誰が使うのか、その人はどんなことを思って「作品」を使うのかがわからなくなることです。それがわからないと「作品」作りの素晴らしさは喪われ、無味乾燥な「作業」に姿をかえてしまいます。」と。

いうまでもないことだが、作業スピードの速いこと、眼前の仕事に対して改善を行っていくことというのは、受託開発のそのものを含め別に悪いことではない。むしろ、最近のように開発スピードの短縮が当り前となっている状況では、なおさらである。加えて私の場合、何かを作る楽しみに関心があって今の仕事をしているため、何であろうと実はコーディングしているだけで結構満足してしまうというところがある。しかしながら、自分自身が日々の作業へ埋没してしまうと、自分の感じる喜び自体も近眼的なものに陥ってしまうという点は示唆に富んでいる。なぜなら、現状を楽しんでいることと、それで満足してしまっていいのかどうかは別の次元のことだからである。そして、そう考えれば私の結論は決まっている。それでいいわけがない。仕事がおもしろいかどうかは最も重要なことではあるが、それで見えなくなるものがあるのはいただけないということである。

記事の著者はエッセイらしい笑いを誘う内容で締めくくっているが、しかし考えてみれば、自分だけでなく世の中のいろいろなものまでが、この手の「慣れ」の生む「倦んだ状況」となっているように感じる。政治、経済、社会... そしてそれに対する批判そのものまでがステレオタイプと化している。そうすると、何かがあっても「またか」となり、それでいいわけでもないのに卑近な日常の中では、それが後退してしまう。後はその繰り返しである。

やはり常に何か新しいことをやる意思を持ち、かつそれを実行していかないと駄目だなということを痛感させられる。何事によらず眼前のものから片付けていくというのは当然のことだ。(そうでなければ現実逃避である。)しかし、それとは別にそういう自分をもっと俯瞰して見ることができるということ。そういう中で今の自分の位置を捉えていくということ。そのバランス感覚が非常に重要だと思う。

つまり、ここでいう何か新しいことをやるというのは単なる思い付きという意味ではない。現状分析の上でのビジョンなり展望ということである。日常の埋没よりも一回り大きな視野を持つというのはそういうことだと思うし、スピードの求められる時代だからこそ、そうでない視野が求められるということである。(だからといって、ビジョンさえあればいいというものでもない。なぜならビジョンだけでは絵に描いた餅だし、いうまでもなく技術だけでは単なるおたくに過ぎないからである。)