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ブロードバンド時代

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editor唯野
2001.1.5公開
2001.1.10修正
2020.2.25文字化け修正

昨年辺りから個人によるインターネットへの常時接続というものが一般化し始めた。周知のように日本におけるインターネット元年は実質的にいって 1995 年、もっといえば Windows95 の登場に負うところが非常に大きいのであるが、我が国でもようやくにして次の段階が見え始めたということになる。そして、この常時接続の一般化に並行して大きな波となるであろうのが、通信のブロードバンド化、即ち現在よりも圧倒的に高速なデータ転送速度の実現である。

インターネットが一般化する当初より、これがまだまだネットというものの持つ可能性の全てではなく黎明期に過ぎない、ということはいわれてきた。確かに、常時接続とブロードバンドはこれまでには不可能だったサービスやコンテンツを実現する。なぜなら、それはインターネットがもはやパソコンの一部ではなく生活の一部となることを意味し、デジタルとして扱われるものがいよいよ動画の領域にまで広がるであろうことを示すからである。具体的にいえば、移動体端末から家のエアコンを操作したり、テレビ番組をインターネットからダウンロードするようなことが絵空事ではなくなる。更にいえば、今日的な意味での「パソコン」や「インターネット」という言葉の意味そのものまで変える可能性を秘めている。しかしながら、それを実現するのは、まず間違いなく現在のインターネット(TCP/IP)のテクノロジを基盤としたものになるだろう。なぜなら、コンピュータの世界の変化がいくら速いとはいっても、新しいテクノロジは突然に現れるわけではなく、あくまでも現在の主流であるものをベースとしながら変化していくためである。

既に(例によって ?)日経系のメディアなどはブロードバンドの波のことを積極的に伝え出している。おかげで情報産業の世界が恒常的にしてきたように、「インターネット」や「IT」の次にキーワードとして流行るのは「ブロードバンド」なのかもしれない。そして、消費社会としてのそれは、より顧客上位の世界を示すようになるものと私は考える。なぜならオンデマンド(お望みに応じて)ということの実現は、消費における顧客優位という力関係のベクトルをより強いものにするからだ。中間業者の淘汰、逆オークション(顧客による希望範囲内でのサービス・プロバイダの検索機能)の登場などは皆、この兆候であるように私には映るからである。

しかし、コンピュータを生活の様々な側面にまでリンクさせていくということは、いうまでもないことであるが非常に便利な世界を示す一方で、とても怖いことでもある。それは、やはり個人のプライバシーの暴露ということだ。というのも、情報がデジタルであるということは、それの保存・加工・再利用が容易であると同時に、それを利用する個人データの側も同じくデジタルゆえに保存などが容易だからである。

私が危惧するのは、この国においては、そういう個人のプライバシーの管理というべき事態が、恐らくはその問題の重要性に関わらず外堀を埋めるような追認のかたちで進められそうな点である。そうでなくても技術革新のスピードが既に既存の(人間の)システム側における変化のスピードに合致できなくなりつつある現在では、新しいテクノロジが及ぼす技術革新以外の影響に対する議論が乏しくなりがちだ。最近の例でいえば、脳死問題がそうであるしクローンやヒトゲノムの解読、もっといえば核だってそうである。結局のところ、社会はテクノロジがもたらす結果を後追いでつじつま合わせすることが多くなってきているように私は思う。

言い換えるのであれば、このことは既存の学問が世界の全体像を示せなくなっている理由のひとつとして、このテクノロジを主導にした社会の変化の速さが挙げられる、ということだ。つまり、学問が社会を説明しようとしても対象である社会が既に別の状態へ遷移してしまっているのである。だから、社会が個人のものとして切り分けられていくこととは別の側面として、そういう先の変化を見越した分析(学問)というものが必要にされてくるのではないか...という気がする。(もちろん、資本主義的な意味でのマーケティングのようなものはとっくにありますが、より包括的な――ということです。)

閑話休題。さて、記憶に新しいことであるがインターネットを利用した自殺告知サイトや薬物サイトの存在が、一時期ひとしきり世の話題になったことがあった。マスコミはそれをセンセーショナルに伝え、インターネットに対する規制論がまことしやかに語られたものである。しかし、それに対するバランスを考慮した反論が同じマスコミから伝えられることはほとんどなかったといってよい。(もちろん各論としてはあったのだろうが...)同じ構図は学校への規制でも同じだ。少年による凶悪事件があると、それをマスコミが煽り、結果としてはそれをテコにして少年法改正だの何だのが導入されてきた。そこにあるのは、社会問題を単純にマイナスとだけ捉えて、なし崩し的に規制のための法律なり何なりができるという筋書きに他ならなかった。

そもそも私にいわせれば、既存メディアがインターネットという同じメディアを攻撃すれば、結局は自分たちにもはね返ってくることが自明であるのに、なぜそういう短絡的な報道ができるのか自体、甚だ理解に苦しむことである。しかし、そういう状況にあるからこそ、プライバシーの問題に関する議論というものが、ブロードバンド時代の到来を前にした今から必要とされるように私は思う。(それはテクノロジを諸刃の剣として捉えることともいえるだろう。)理由は既に述べてきたようにテクノロジの進歩に歩調を合わせた議論では既に手遅れだからということ。そしてプライバシーというものは破られてからでは遅いものであり、かつ既に盗聴法という名の悪しき先例が存在するためである。

# 一応、世紀の変わり目らしいので大風呂敷でも広げてみたという次第 :-)