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山口二郎
若者のための政治マニュアル

ガイド

若者であろうとなかろうと政治参加するのが民主主義です

書誌

author山口二郎
publisher講談社現代新書
year2008
price720+tax
isbn978-4-06-287969-9

目次

1本文
2抄録

履歴

editor唯野
2020.7.23読了
2020.7.25公開

『民主主義は終わるのか』を読んだので、合わせて本棚にあった(ままの)この本も読んでみた。既に若者でない(?)私がこの本を読むと目新しさはあまり感じないものの、それでもいくつか卓見だと思った箇所があったので紹介しておく。全般的には革新という以上に保守の劣化に対する指摘が全くその通りだと思った。つまり、今の日本では良い意味での革新だけでなく保守もおらず、単なる政権寄りかそうでないかくらいのラベリングでしかなくなっている。

戦争の犠牲者を悼む、悲しむという心情は当然のものである。その営みは、個人に任されるべきであって、そこに政治が入り込んできてはならない。戦争の犠牲者を「国のために死んだ」と美化する政治家は、個人は国のために死ななければならない場合もあることを肯定している。逆に、国のために死ぬことを拒否する人間の存在を否定する。つまり、政治家が個人の命について意味づけすることが許されるならば、生きる価値を持つ人間と、生きる価値を持たない人間を、政治家が選別することを許してしまうのである。(p.16)

これらの議論は、いずれも、部分的に正しいことから出発して、それを過度に一般化し、誰も反対できない〝正論〟を形成するというインチキを行っている。国民は支配される対象ではなく、主権者としての意識をもてというのは、その限りでは民主主義の心構えを説く、正しい議論である。しかし、だからといって自立した主権者市民は政策的サポートを一切受けず、小さな政府を支持しなければならないということにはならない。自立した市民が合意の上でリスクを社会化する仕組みを作り、政策的サポートを利用するという選択肢もあるはずである。(p.78)

「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を支援するのは、慈善が強者・富者の義務だからではない。それが「自分自身」だからである。-/-

私たちは誰であれかつて幼児であり、いずれ老人となる。いつかは病を患い、傷つき、高い確率で身体や精神に障害を負う。そのような状態の人間は「アンダーアチーブする人間」であるから、それにふさわしい社会的低位に格付けされねばならず、それを剥奪して、オーバーアチーブしている人間に傾斜配分すべきであり、それこそが「フェアネス」だという考え方をするということは、自分がアンダーアチーブメントの状態になる可能性を(つまり自分がかつて他者の支援なしには栄養をとることもできなかった幼児であった事実を、いずれ他者の介護なしには身動きもできなくなる老人になる可能性を)「勘定に入れ忘れている」からできるのである。(内田樹「モラルハザードの構造」-/-)(p.82-83)

-/-民主主義の下では、実現するかどうかは別として、人は自分の考えを為政者に伝える権利がある。また、権利主張を補強するために客観的な根拠を集めることも必要だという教えも重要である。もっと重要なのは、自分とは違う意見や要求を聞いて、みんながある程度満足できるような解決策を探すという態度である。-/-(p.140)

小泉時代には、公共セクターと市場との対立軸がメディアにおける政治論議を支配し、市民の政治認識がそれによって構築させていた。公共セクターと市場を対置するなら、経営者も非正規雇用の低賃金労働者も同じく市場の側に属する。公共セクターで働く人々や、市場の側でも公共セクターからの保護や支援によって生計を立てている人々(農民、建設業者、年金生活者など)を敵に設定すれば、市場の側に存在する富のヒエラルキーは問題化を免れる。そのような言説こそ、エリートの自己充足化を受容させるイデオロギーとなる。(p.168)

まず、指摘しておきたいのは、現実主義と思考停止は違うということである。この点は、丸山眞男が「「現実」主義の陥穽」という論文で今から五十年以上前に指摘していた。丸山は、現実とは多様であり、また人間の働きかけによって動きうるものであるにもかかわらず、日本では常にある種の現実が不動の前提とされ、それに追随することを現実主義と呼ぶ傾向があると言う。特に、保守系の政治家や官僚にその傾向が強い。(p.177)

この点を、イラク戦争を例にとって検討してみよう。アメリカによるイラク攻撃を支持するという日本政府の方針を決定した政治家や官僚及びそれを支持する学者、評論家に共通するのは、日本にとっては対米従属以外に道はないという言い方である。これらの議論は、およそ別の選択肢の可能性の考察を最初から放棄したものであった。しかし、どんな状況になろうと答えは常に同じというのであれば、そもそも日本には外交政策は不必要ということになる。外務官僚も評論家もいらないことになる。-/-(p.178)

市場をモデルとする改革を志向する人々は、社会主義体制のヒエラルキー、つまり共産党幹部を頂点とするエリート主義的なピラミッド構造を否定しているはずである。市場こそ人間の自由や多様性を保障するはずである。だから、規制緩和や民営化が必要だと説明されてきた。しかし、それは嘘である。-/-上意下達のヒエラルキーこそ、戦いに勝ち抜くための組織モデルである。(p.195)

バクラックとバラッツというアメリカの政治学者は、権力を二つのレベルからなるものと考えた。第一のレベルは、政策決定の過程で物事を決める、処理するときに発揮される力である。これは、議会や官僚機構において行使されるもので、見えやすい。第二のレベルの権力が、この否認の作業において発揮される。彼らは、否認の作業を「非決定の決定(decision of non-decision)」と呼んで、非決定の決定に、第二のレベルの権力が行使されると考えた。これは見えにくいものではあるが、我々に大きな影響を及ぼす。(p.208)

抄録

10

こんな生きづらい社会を変える最強の武器は、民主主義である。-/-しかし、普通の市民、特に若者にとって、学校で習った政治の知識と、市民としての実践の間には、とても大きな落差がある。

11

森永 (前略)今の学生を見ると、人間的に優しい反面、差別に対する疑問や怒りなどを感じないという特徴があります。そういう世代が主流を占めちゃっているんです。これはすごく危険だと思っているんですね。」

尾木 (前略)教育とは本来、そういった権力者の行動を看破できる教養や知性、スキルの習得を中心的な責務とし、自律的な人格形成を目指しているはずです。残念ながら、今の日本では、それらの値を総動員して洞察力を働かせ、事実を客観的、総合的に分析し、事象の本質を見抜く力量を子どもたちに身につけさせていないと思うんですね。」

(尾木、森永、『教育格差の真実』(小学館101新書、二〇〇八年一〇月)

-/-政治学者の端くれとして、ただ嘆くだけでは情けない。-/-今の時代に即して、特に社会の荒廃で様々な被害を受けている若い人々に対して、政治のスキルを提示することを目指して、本書を執筆した。-/-

14-15