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小松左京
やぶれかぶれ青春記

ガイド

書誌

author小松左京
publisher旺文社文庫
year1975
price200
isbn611-27-Z

目次

1本文
2抄録

履歴

editor唯野
2001.11.24読了
2002.1.13公開
2002.1.14修正
2020.2.25文字化け修正

著者の青春時代を綴った本だが、当然ながら時代を反映していて著者が自らもいうように、戦時期での不条理さなどが大部分を占める「あまり明朗とかすがすがしいとはいえない」内容になっている。ただ、それだけに戦後の開放感に満ちた旧制高校での 1 年間が文字通り楽園として描かれていて、その対比が逆に強い説得力を生み出すかたちになっている。(加えて、これはこれで学制改革により著者にとっての楽園は 1 年だけで終わってしまい、その後は新制大学への転入となる。それだけに、ますますこの 1 年が青春の圧倒的な「明」の部分として照射されていることになる。)一読して思ったのは、明るくて悩みの全くないようなものにばかり、青春の名を冠することへの疑問だった。冒頭で著者がいみじくもいう通りである。

だがしかし、そうも行くまい。――人間は、その時期を通過しなければ、生理的に「おとな」になれないという、まことに奇妙な宿命をせおっている。うまれてから死ぬまで、そのところどころに、成長の「節」があって、これはまだ今の所、人類の科学技術をもってしても、どうにもならない。-/- (p9)

しかしながら――これも、諸君はよくご存知のことと思うが――青春とは、途方もなく暗く、陰惨で、息苦しいものであると同時に、一方では、途方もなく無責任で、間がぬけていて、ムチャクチャで、ばかばかしくて、素頓狂で、おかしいものなのである。-/-若さの中には、はてしなく暗く、重っ苦しいものがある反面、それと同じくらい底ぬけに明るく、軽く、強靭なものもふくまれている。――人間とはよくできているもので、青春という、一種猛烈な熱病的な状態を通過するために、そのはげしい動揺をたえぬく力も、青春という状態 *そのもの* の中に、ちゃんとそなわっているのだ。自分と世界を、強烈に否定してしまおうとする青春特有の衝動は、自分を破滅の淵にたたせると同時に、何も彼も否定することそれ自体によって、新しい「自分」を、それまでの世界と自分の外にうちたてる。こうして、青くさい自分と、それを包む古い世界とから徐々にぬけ出すことによって、若者はしだいにたくましい「おとな」になって行く。(p12-13)

抄録

51

「あと半年、いや三か月あの戦争がつづいたら、君たちと同じ死が、ぼくたち〝本土〟の中学生の上におそいかかってきたはずだ。――わずか千キロの距離が、数か月の時間が、ぼくたちと君たちの運命をわけ、君たちはここで死に、ぼくたちは〝戦後〟の二十数年をこうして生きのびた。同じ日本の中学生だったわれわれの運命を、こうもへだててしまった〝運命〟とは、いったい何だろう ? これが〝歴史の壁〟というものだろうか ?」

55-56

これはまったく奇妙なことだが、例の爆弾をかかえて片道ガソリンでつっこんで行く「特攻隊」の場合でも、決して *表向き* は、強制的に「お前行け」と名ざしで命令するわけではない。軍隊であっても「お前、死ね」とは、*公式* に命令するわけにはゆかないのである。これもあくまで「自発的志願」の形をとる。むろん、前日にあらかじめ、隊長の内意をうけた分隊長などから、その順番にあたるものは内々にいいふくめられてあるのだが、特攻 *志願者* をきめる当日は、隊長どのが「誰か志願するものはおらんか ?」とたずね、あらかじめいいふくめられていた何人かが「私がまいります」と *自発的* に進み出る形をとる。こういった奇妙な「しくまれた芝居」が、戦争中はいくらもあったのだ。-/-

71