浅田次郎
地下鉄に乗って
書誌
author | 浅田次郎 |
publisher | 徳間文庫 |
year | 1997 |
price | 514+tax |
isbn | 19-890698-X |
履歴
editor | 唯野 |
2000.5.31 | 読了 |
2000.6.5 | 公開 |
2000.9.16 | 修正 |
山国育ちの私が地下鉄なるものを知り生活の一部とするようになったのは、高校卒業より後のことだ。そのためか私にはこの物語にあるような「地下鉄」という乗り物に対する憧憬というか、人間の生き様のそばにある古くて懐かしくもある風景の一部というようなイメージはない。結局のところ、それは都市生活者特有の思い入れであり、生活の道具というようなイメージが強いためである。例えば、私は今でも山手線のターミナル駅のホームなどは人間生産機かと思うようなことがある。圧倒的な数の人間が四角い階段からひっきりなしに吐き出されてくる様を見ていると、この上は工場か何かのように思えてしまうのだ。そのことから恒常的に増設される交通機関という姿にこそ、都市というものの顕著な特徴のひとつがあるように私は思う。
閑話休題して本題に入ろう。本書のあらすじは解説で馳星周が以下に示す通りだ。
仕事に倦み、家族の葛藤を抱え、人生にくたびれきった中年サラリーマンが体験するタイム・トリップの物語。主人公は過去と現在を行き来しながら、憎み軽蔑していた父を理解し、愛するものを失い、それでもなお、自分の意思と足でこれからも生きていくことを確認する。(p.282)
現実は醜い。そこに生きる人間も決して美しくはない。だが、こんな世の中にも美しいものは確実に存在する。その美しいものを、おれは美しいままに書くのだ。(p.283)
あまりにも簡潔にして的を得た一文であったため、私から付け加えることがあるとすれば、これは著者でも初期の作品に属するというくらいのものだろう。(ちなみに、これを蛇足と称する。)そして、一読しての感想としては、とにかく読みやすい物語、しかしちゃんと小説になっている物語、という印象だった。読み手に何かを無理強いするわけでもなく物語は展開し、そして最後には何というか言葉ではいいにくい悲しさの残る作品ということができるように思う。自然体で接することができ、それでいて楽しさもあれば悲しさもあるという内容。血のつながりを持ち出すことで謎を解き明かしてしまうのはあまり好みではないけれども、なかなかの本だと思う。
主要登場人物
小沼真次 主人公。父と袂を分かった平凡なサラリーマン
小沼佐吉 主人公の父。一代にして大企業を成した立志伝中の人物(アムール)
みち子 主人公と親しい仲にある会社の同僚(父の別の女性との間の子)
昭一 主人公の兄。地下鉄で自殺する(母の別の男性との間の子)
圭三 主人公の弟。父の会社で働いている
のっぺい 主人公の恩師
村松 父の運転手
抄録
145
六十代が立派な老人で、しかも社会的寿命を五十代でほぼ終えるこの時代には、人はずっと老けていたのだ。-/-
162
死線を越えて五銭。苦戦を越えて十銭か。泣かせるじゃないですか。-/-
275
死んだ人間なら、多くの人間の記憶にとどまっている。時とともに風化はしても記憶が完全に消滅することはない。
しかし、この世に生まれ出ることのなかったみち子を知る者は、誰もいない。
みち子が彼女自身の存在と引きかえたものは、いったい何だったのだろうと、真次は考えた。