なだいなだ
教育問答
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書誌
author | なだいなだ |
year | 1977 |
price | 680 |
isbn | 4-12-100488-4 |
履歴
editor | 唯野 |
? | 読了 |
2018.1.5 | 公開 |
2-18.1.27 | 修正 |
これまた相当昔に読んだままとなっていた本。(何かこんな本ばっかりだが...)なだいなだのこの種の本は読みやすく、それでいて説得力があり、読みながら考えさせられる部分が多い。難しいことを簡単に説明できるのは大切なことだが、説明できさえすればよいというわけでもない。それが説明された側にとって更に何か考えるきっかけを生むものであるかどうか、その人の行動を変え得る、もしくは続けさせる何かであるかどうか――が、同じくらいに重要であると思う。
ところが、最近はどちらかというと簡単に説明するだけでおしまいというか、それで分かった気になってしまって、その先の「何かを考える」ところまで至らないことが多い。それくらい周りの情報が多いともいえるのかもしれないが、ちょっと立ち止まって考察することの必要性をしきりに感じる。その理由の一つとして著者のような存在の人がなかなか生まれないこともあるのかもしれないが...
抄録
15
――ああ、そうか。それで気がついた。それなら、ぼくの質問には、もうひとつ「何とくらべて」という文句も、欠けていたことになるんですね。たしかに、Aさん、あなたのいうように、もし人間が、なにもかも学ぶことができるのなら、学べるものは、なんでも学ぶがいいということになる。そして、大切でないものは、なにもない、ということになる。しかし、人間、することには限度がある。時間的にも、能力的にも限度がある。となれば、どうしても、すべてが大切であっても、あれより、これの方が大切だ、と考えねばならないことになるんですね。-/-
29 cf.98
――この年になっても、好きで勉強はします。でも、高校に入りなおそうとは思いませんよ。精度としての学校は、どうしても、ただ一つの価値観を強制することになってしまうからです。つまり、制度としての学校は、もしひとりの学びたいと思う人間がいたとしたら、その人間に自分の学びたいと思う学び方を、やめさせるところなのです。そして、学校のきめた学び方を、その人間に強制する。中学校までは、必要悪と認めてもいいでしょう。しかし、高校の年齢になれば、人間は、そうした学び方もできるようになるのです。-/-