ホーム > 読んだ

久生十蘭
十字街

ガイド

書誌

author久生十蘭
publisher朝日文庫
year1994
price860
isbn2-264054-5

履歴

editor唯野
2002.9.6 ?読了
2002.9.16公開
2004.4.2修正
2020.2.25文字化け修正

大戦間期のフランスを舞台とした疑獄を中心に、そこに巻き込まれる日本人男女を描いた本。久生十蘭は名前だけは以前から知っていたが、これまで読んだことがなく、これが初めての本となった。接してみるまでの私の中での勝手なイメージでは割とアクの強い作家という印象だったが、解説を読むとその第一の特徴はスピード感にあるとの指摘がされている。

しかし、私の読後感としては、むしろ文体を含めたつっけんどんな部分というか、突き放すような部分に強い特徴を感じた。実際、それは本書の登場人物の多くが運命に翻弄されていく中にあって、結局のところ疑獄そのものは完全に隠蔽されていくという点でも明らかである。そして久生十蘭の筆は、その是非を論じることもなければ、そこで不幸な運命をたどった登場人物たちに憐憫の情を見せるわけでもない。舞台がめまぐるしく変わっていく中にあって、徹底して第三者的というか、そういう感じで書き切っているように思う。

それゆえ、私から見ると上述したスピード感というものも、そのような余計な描写を省いた結果として得られているのではないかという感じがする。ただ、本書では登場する日本人たちの多くが日本での大逆事件の関係者であり、そこから日本の疑獄が逆照射されるしかけになっているところではメッセージ性があるというべきだろう。

なお、解説では割と作中の記述に誤りがあったり、地図を見ながらでないと地理が把握できないという点、更には著者には同じ素材を用いた別の作品が多いなどといった、割と詳細な作家の説明がされている。解説そのものは割と散逸的な記述だが、こういう過去の作家の本を読む分にはありがたい配慮だった。

主要登場人物

小田幸吉 アメリカから渡仏した貧乏絵描き、殺人事件に出くわす
佐竹潔 大学生、小田の友人
高松ユキ子 貧乏学生、スタヴィスキー経由で学資を得ている
鹿島与兵衛 フランスの富豪、佐竹と関係がある
アレクサンドル・スタヴィスキー 疑獄の中心人物、アルプスに隠棲中
プランス 疑獄を追っていた判事

抄録

209

河岸の近くまで行くと、無数の物音のいりまじった、休むことのないざわめきが遠雷のようにひびいてくる。セーヌ河にのぞむ下院前の通りから、世界中でいちばん美しい十字街だといわれる河むこうのコンコルド広場まで、見えるものはただもう人の波だけで、その間を水嵩(みずかさ)のましたセーヌ河が、橋桁を噛みながら陰鬱なようすで流れていた。

279-280

「しょうがないのさ。プランスは殺される、大審院の書証は根こそぎ盗まれる……もうなにもかもおしまいだ」

313

久生十蘭のテンポの速さは、実は思考の速さである。なにかが書いてある本を前にして、それを読む時、全部を読み終える前に、この人はまず「よーし、分かった !」と言ってから読み出すのだ。そういう種類の人は明らかにいる。初めの一、二行で、「この文章は自分に分かる文章かどうか」という見極めをつけてしまってから、そして「分かる」という決断を瞬時にして読み始める。だから、この人にとって、〝読む〟という作業は〝記憶する〟という作業に等しいのだ。〝博識〟という事態は、多分そのようにして可能になる。-/-

翻って、それがために久生十蘭は無知を嫌悪したという記述が同じく解説では触れられている。cf.322