佐高信
本によって人を読む
ビジネス・エリートの読書学
ガイド
書誌
author | 佐高信 |
publisher | 教養文庫 |
year | 1993 |
price | 560 |
isbn | 390-11481-6 |
履歴
editor | 唯野 |
2000.3 ? | 読了 |
2000.4.16 | 公開 |
2002.4.9 | 修正 |
2010.3.29 | 語録を箴言として追加 |
2020.2.25 | 文字化け修正 |
人物を知る方法というとそれこそいろいろあるのだろうが、私の場合のそれで意外と大きな比重を持っているのが「その人の本棚を見る」ということだ。どんな本があるかだけでなく、どんな置き方をされているか、どんな書棚なのかといった――即ちその人の本への接し方の全体像という情報がその人となりを知る上で意外と多くのものを示してくれるように思うからである。
本書の表紙の折り返しには「その人を知れば知るほど、私は、その人の書棚をのぞきこみたい誘惑に駆られる。いわば「本によって人を読む」のであり、「人によって本を読む」のである。」とあるが、私が本書を読む理由も、この一文だけで十分といってよい。こういう場合の書名なり著者なりという理由はそれこそ後付けというか二次的なものであって、私にとっては上記の文章だけで他は何もいらないからである。
むろん、(これ自身がまさしく同じものである)読書ノートでも文字通り桁の違う量となっている著者と私とでは修養の程度もこれまた桁が違うといわざるを得ないのであるが、プロローグにも登場するような「本友だち(ブックフレンド:会ってもいないのに、「好きな本」をつうじて、何か親近感を抱いている人)」としての気持ちがあれば、それだけで私は満足なのだ。奇しくも、著者が読書ノートをつけ始めたのも大学入学以来だというから変な縁もあるものである。私も大学時代はあほなことばかりやっていたが、読書ノートの習慣だけは続いたことが今思えば唯一のまともなことだったのかもしれない。それだけに、こういう意味での「同志」を見つけることは、読書の重要な醍醐味のひとつといってよいように思う。そういうときの喜びというのは、はたで見るよりも本人にとっては非常に嬉しいものだからである。
ちなみに、先に引用した文章にはプロローグに続きがあって、それは「図書館を利用するのも、「読書ノート」をつけるのも、やはり、読書への刺激としてはカラメ手であり、本道は、何と言っても、「本によって人を読む」あるいは「人によって本を読む」といった、人を〝触媒〟にするところにある」となっている。さすがに急所を押さえているなというべき文章だと思う。全くその通りだし、常々心掛けねばならぬと思う。
抄録
4
多くの経営者たちも、さまざまなアンケートで、ビジネス書や精神訓話もの(儒教等に依拠する)を挙げているが、こうした本を推している経営者を見ると私には何となく、彼らの「知的貧困さ」が感じられてならない。経営者が経営書を読むのは、ある意味で当然であり、敢えてそれを挙げるのは、たとえて言えば、「食べもので何が好きか」と尋ねられて「コメ」と答えるようなものではないだろうか。
とはいえ、メディアが文字通り多様化し、読書が唯一のメディア足り得なくなった現代では、そう決め付けるのも少しばかり酷な気が私としてはしなくもない。
15
「本がたまり過ぎて狭い家におさまり切らず、会社の倉庫の世話にもなっている」というほどの読書家の住友金属鉱山社長、藤崎章氏は、愛読書の一つに、緒方竹虎著『一軍人の生涯――回想の米内光政』を挙げる。
米内(よない:唯野注)は最後まで日米開戦に反対したことで知られる元海軍大臣だが、軍人には珍しく、大変な読書家だったという。
「軍国主義の足音の高まるなかで、軍人でありながら戦争に反対したあの思考の柔軟性は、米内が大の読書家であったことと無関係ではないのではないか」
藤崎はこう語る。