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呉智英
封建主義者かく語りき

ガイド

書誌

author呉智英
publisher双葉文庫
year1996
price500
isbn4-575-71077-6

目次

1本文
2抄録

履歴

editor唯野
?.
2019.5.10公開
2019.6.26公開

はるか昔に読んでそのままになっていた本。そもそも著者の本を最近は全く読んでないのだが、初めてこの人の名前を知ったのは廃刊直前の朝日ジャーナルで掲載されていた連載記事で、そのときにはとてもおもしろく読んだ記憶がある。

それでその頃には何冊か本も読んだ。しかし、リベラルを装った保守というか、またはその逆というか、著者の書物や漫画に対する知識には脱帽するものの、肝心の知識の使い方がサブカル寄り過ぎるイメージが強く次第に読まなくなってしまった。

かくいう本書もその刺激的なタイトルで手にした一冊であるものの、今更ながらに読み返してみると変に感じるところが多々ある。要は著者としては平俗的な民主主義批判が真の目的であり、著者が自ら公言する封建主義者としての主張はそのための道具に過ぎないという印象が強い。しかしながら、これは著者が批判する民主主義は封建主義を批判(ネガ)にすることで自らの正当性を得ている、という考えの逆(ネガ)であるに過ぎない。

私は民主主義においては封建主義者も思想の自由によって包含できるが、ファシズムや独裁、封建主義では権力者が体制批判自体を認めることができないという点で決定的に異なると考える。著者のような論考の是非以前に民主主義を否定する思想まで含められるところが民主主義の優れたところなのだ。もちろん歴史を紐解けば「赤狩り」なども史実ではある。しかし、そのような弱点をも批判できる自由がある。封建主義の下ではそれは直訴のような命懸けの行為になってしまう。そういう意味では著者が繰り返す民主主義以外を認めない民主主義者への批判はもっともだし、封建主義の再評価という視点も有効だろうが、それが封建主義の優位性につながるかどうかは別の話である。

例えば著者は封建主義にも民主主義における多様性に置き換わる概念として「寛容」があると述べているが、著者のいう「寛容」は正確にいえば「傲慢」と紙一重のものだ。もしくは自分優位の中での許容、と言い換えてもよい。

なぜそうなるのかというと、著者は本書の冒頭の方で『土佐の一本釣』という漫画の主人公を批判して

だが、一主婦の立場から、一漁師の立場から、日本人論だの美風だの、「みんなの意見」など聞いたところで、何の役にも立ちはしないのである。

とエセ民主主義への不平を漏らすのだが(p63、もしくは最後の方では観念としての「分をわきまえよ」という主張をしているが)、それなら著者のような一文士の言説も同様に「何の役にも立ちはしない」のだから不要である。つまり、民主主義を攻撃する武器が自分にも跳ね返っていることに気づいていない。それとも自分だけは例外であるというのであれば、それこそ「傲慢」以外の何物でもなくなる。だから「傲慢」というフィルターを通すのであれば、本書でもしばしば登場する書籍や新聞の誤字を指摘して喜んだり、サブカル的蘊蓄を披露して満足する文章が出てきても矛盾はなくなる。

あるいは著者は封建主義でも尭舜禹のように徳のある人に権力を譲った例があるので封建主義 = 世襲ではないと主張しているが、伝説上の皇帝ではなく現実の平時の王朝で非世襲の権力交代など、ほとんどなかったはずである。そして世襲が不要であるならば、それこそ日本の皇室など真っ先に不要となろう。世襲に縛られるからこそ名君がいても暗君がいるジレンマを克服できないのであり、それこそが歴史によって証明されている封建主義の欠点だからである。封建主義であろうと民主主義であろうと腐敗はあるし、権力者が利権に目がくらんで目先のこと・自分のことしか考えなくなれば、ろくなことにはならない。それを第三者からチェックできるようにするか(民主主義)、天命を待つか(封建主義)と問われれば私なら前者を選ぶ。

このように批判したくなる箇所の多い本であるが、今のタイミングで読み返してみると、内容的にはネトウヨ的というか、百田尚樹的というか、それに近いものも強く感じる。つまり、そういう言説のはしりだったと考えると、ものすごく納得できる。そして、それは週刊金曜日のどこかで読んだ「ネトウヨは結局、真正右翼ではなく、真正保守でもない」という一節にも通じる。もっとも、この主張は左翼やリベラルにもあてはまるし、だからといって真正が良いなどとも全く思わないが、非常に腑に落ちる説明ではある。

小林よしのりはまだ『ゴーマニズム宣言』において「ゴーマンかましてよかですか」と一言断るだけの分別があった。が、それさえもなくなって今のネットでは声の大きさだけが残った。傲慢さの独り歩きを抑えるのであれば、確かに著者のいう「分をわきまえる」は自制のために有効である。私も注意しなければならないが、その種の自制心・自省心のない人が「分をわきまえよ」というくらい滑稽なことはない。

抄録

11

もっと以前は、普通なみに飲んだ。酒はうまいと思う。だから好きなのだけれど、飲まないようにしているうちに、飲まなくなったのである。今では、ほとんど飲まない。

タバコも以前は喫(す)った。大好きだった。-/-だが、そのタバコもやめたのである。

12-13

何かを強く決意する時、かつて、断ち物ということが行なわれた。これは、必ずしも実利的な意味によるものではなく、また、自分の決意を強めるシンボルというだけでもない。いわば〝天〟に誓うのだ。「天」だの「断ち物」だのと言うと、おっそろしく時代錯誤的な、非現代的だと感じる人もいるだろうが、それがちがうのである。

そもそも、「時代錯誤的」なり「現代的」なり「進歩的」なりの内容を考えなおさなければならないところにまで、まさに、その現代が追いつめられているのである。-/-

17

もちろん〝天〟も、その下にいる人間が生んだ幻像である。幻像でいっこうにかまわない。実体であるとされる(ソ連の社会主義が謳う:唯野注)〝未来の高級パン〟に支配されるより、自分の幻像を自分の決断によって選び取ることができれば、そのほうがどれだけすばらしいかしれない。