鈴木邦男
言論の不自由
書誌
author | 鈴木邦男 |
publisher | ちくま文庫 |
year | 2000 |
price | 640+tax |
isbn | 4-480-03585-0 |
履歴
editor | 唯野 |
2020.9.18 | 読了 |
2020.9.21. | 公開 |
鈴木邦男の文章は各所で読んでいたけれども、実際に書籍で読んだのは初めてだった。さすがにちょっと古いかなと思うが暴力ではなく言論でという趣旨は同感である。また、自身が不利になるであろう議論の場所にも顔を出す点では素直に大したものだと思う。
著者はリベラル寄りの右翼(こういう言い方自体も古いか...)という印象が強く、本書では幅広く天皇についてを論じているが、結局のところ右翼や左翼に限らず原理主義に走ると、暴力容認が自身のアイデンティティの一部となってしまうため、暴力否定は自身の否定となってしまう側面があり、それで話が進まなくなるのだと思う。要はヤクザなどと同じなのだが、さすがにこういうあたりの心境に関しては分かりやすい説明が多い。例えば、p72の一文などは良い例である。
「テロをやった人間の思いつめた気持ちは分かる。しかし、テロはいけないし、話し合いをやりたい」
とでも言えばいいと思うのだが、「テロを肯定する」と言ってしまう。いや、言わされてしまう。イエスかノーかしかないからだ。また、「肯定する」と言わなければ、右翼じゃないとか、男らしくない……という気持ちもあるのだろう。(p72)
一方で本書を読んで思ったのは、著者がリベラル寄りというか、いわゆる右翼に固執しないのは、結局のところイデオロギーより個人を優先しているからだろうと思った。だから自身でも述べているように天皇崇拝も少年期のミッション・スクールでの聖書・讃美歌強制への反発という素地があり、一水会代表を辞めて自身の過去を反省したり、暴力より言論を説けるのも、結局はそこに行き着くからではないかと思う。逆にいうと通俗的な右翼・左翼は原理主義者であるがゆえに自分よりもイデオロギーを優先して個を矮小化する。同時に例えば天皇も同様の観点でしか捉えないから、二択的な議論しかできず平行線をたどる――ということになるのだと思う。
しかし、僕は別に「右翼として」天皇を支持・擁護しているわけではない(ここは重要だと思う)。ましてや、それが「右翼の証」だとも思っていない。それはなぜか。ここで、天皇は日本の文化である、とか、日本の精神、余裕であると言うのは簡単だ。百人集まれば百通りの天皇論がある。ただ、日本に天皇陛下がおられた方が素晴らしいと思っている人が八十七パーセントいるし、僕もその一人として、おだやかな天皇支持論者だと思っている。それ以外の何物でもない。だから右翼として支持しているのではない。ましてや自分たちが天皇を守っているなどと思い上がった気持ちはない。
自分では脱右翼だし、むしろ左翼的な傾向も多分にあると思っているのに、それでもなぜ、天皇支持派なのかという理由だ。これは今まで深く考えたことはなかったが、結論から言えば、反天皇論の「言葉の汚なさ」故だと思う。それが僕を天皇支持派に押しとどめているのだろう。(p189-190)
著者がいうように天皇制賛成・反対を説くいずれの論者も始終それだけで生きているわけではない。誰にでも家族や社会があり、仮にそれだけで生きている人がいたとしても、社会全体から見ればそうでない人が圧倒的多数であり、そういう人たちの存在を無視することはできない。しかし、それゆえに私から見ると、そこで天皇だけを特別視して日本の文化を一身で守っている――という著者の主張には一貫性がないように感じる。日本の伝統は何も天皇ひとりが責任を負うべきものではないだろうし、天皇にだって家族や社会があり、自由が必要なのは、上述した一般人と同様だからである。
いくら日本が車や電化製品やテレビゲームを作り、それが世界中にあふれても、誰もそんなものが日本の文化だとは思わない。日本の伝統とも思わない。ただ一人、天皇陛下だけが日本の伝統を守り、(あえて「不便な」生活をされながら)、日本文化を守り、祈っておられる。僕らが捨ててしまった、忘れてしまった伝統や文化を、天皇陛下に押しつけて、守ってもらっているのだ。考えてみると、何とも大変な話だ。
だから、我々が天皇制を守って……なんて言い方は傲慢もはなはだしいものだ。本当は我々の方が天皇陛下に守られているのだ。そういう点は謙虚に考えて反省しなけければならないだろう。(p216)
また、そもそも国民国家という装置について考えれば、特に明治以降の天皇は「日本」というナショナリズムの「被害者」ともいえる。右翼が「日本」「国家」ということを言えば言うほど天皇が象徴であろうとなかろうとナショナリズムを発現するための偶像(アイドル)に化すということだ。そして、アイドルであるがゆえに、それは分かりやすく、熱狂性を持ち、善にも悪にも利用しやすく、それ(他者)に依存することは自分で考えなくてよい思考停止という福音をもたらす。
これは別に天皇に限ったことではない。マルクスだろうと宗教だろうと同じことだ。私自身は若いうちにこの種の思想的な「はしか」に一度かかっていおいた方が、逆に世の中を相対的に眺める上での良い経験になると思う。相対化とは何よりもまず自分と他者とのそれでなくては意味がないし、そこを認められるか否かが個人主義の根幹をなす。まさしく著者の本を読んで、そのように感じる。
抄録
7
どんな場合でも言論は自由であるべきだ。そして全ての物事は言論で決めるべきだ。こんなことは当然の事だ。当然のことだが現実はそうではない。言論を越えた暴力がまだまだある。本来ならば言論で決着がつくはずなのに暴力に訴える場合がある。-/-
残念ながらこう考えている人達はまだいる。昔は僕だってそう考えていたんだから偉そうなことは言えない。ともかく自己批判をこめて言っているのだ。-/-
8
-/-たとえ右翼でも左翼でも宗教でも、どれほど過激で偏ったものであっても、言論ならば全てその自由を保障したらいい。そしたら、「俺たちには言論の場がないから」とは言えなくなる。暴力に訴える理由がなくなる。-/-
だから排除された少数派は自分たちだけでまとまり、自分たちだけにしか通用しない言葉で語り合う。六〇年や七〇年の頃は、それでも全学連や全共闘が一般社会に「共通の言葉」を何とか発していた。しかしそれ以降はない。自分たちは正しいことをやっているからこそ警察に弾圧され、マスコミからも無視されているのだと思い込んでいる。自分たちの中に<正義>を持っているから、なおのことそう思う。-/-自分たちの<正義>を伝える手段がないのだ。いや、伝え方が下手なのだ。