ダンテ
神曲物語
ガイド
書誌
author | ダンテ |
editor | 野上泰一(訳) |
publisher | 現代教養文庫 |
year | 1968 |
price | 560 |
isbn | 0197-10618-3033 |
履歴
editor | 唯野 |
? | 読了 |
2013.8.22 | 公開 |
2020.2.25 | 文字化け修正 |
ダンテの『神曲』である。西欧における本書の影響の大きさは今更いうまでもないところであるが、キリスト教徒でない私が読むと、やはりというか、そのすごさがよく分からない。そもそも地獄篇において非キリスト教徒の落ちる地獄があるという辺りからして、ありきたりな教化のためのツールに過ぎないのではないか、とさえ思う。
この感覚は旧約聖書の創世記などを読んだときにも感じたことで、確かに『聖書』は世界で最も読まれている本(もしくはベストセラー)なのであろうが、神が何日で世界を作ったとか、メトセラがものすごく長生きしたとか、所詮、信仰心のない人間が読んでどうなのかという感覚に近いものだ。
それゆえ私にとっての『神曲』の意義を求めるのであれば、それは人間の空想力というもののひとつの極致、即ち想像力が天国・地獄というものをどこまで描き切れるのか――という問いへのひとつの答えとしてだろう。天国のすばらしさ(至福とは何か ?)、地獄のひどさ(苦痛とは何か ?)の直接的な描写のみならず、全体の構成、そこにおける論理と網羅性において、どこまでの説得力を持たせられるのかということは、改めてそれ自体を目的として考えてみると至極難しい。それこそ信仰心だけで為し得ることではない。
私自身のこのような宗教的なものへの距離感は、結局はニーチェやウェーバー的な考え方への傾斜、つまりは頼れるのは結局のところ神よりも自分であって、変わるべきなのも自分自身しかないのだという観念に依っているところが大きいように思うが、こういう人間をも納得させることのできる何か――ということが今日の宗教、もっといえば学問全体が背負っている命題なのだと思う。言い替えれば宗教を含むイデオロギーに縛られなくてもよいことが自由なのか混乱なのか――ということだ。
ちなみに、全体は『地獄篇』『浄罪篇』『天堂編』より成り、それぞれが33歌、そして地獄篇の序章の1歌を加えて、全100歌よりなっている。解説にもあるように他にも原典は三行詩で書かれていたりして、当時に聖数とみなされていた「3」という数字へのこだわりが随所に見出されるようだ。なお、地獄界の構成は p48-49 にもあるが、ダンテの小伝と共に全体の要約が巻末の p478-485 において簡潔にまとめられている。本書で語られる世界の全体像を知りたいのであれば、ここだけ読むのが一番早いだろう。
抄録
10
そこでヴィルジリオは三匹の野獣、なかでも取りわけ邪悪な牝狼について説明し、またダンテが現世へどもるためにはどうしても別の道をとらねばならぬこと、つまり地獄界、浄罪界、天堂界を通ってから帰国すべきことを語り、そして三界のうち最初の二つの世界の案内は自分がするが、最後の天堂界の案内はもっと高貴な霊にまかせるつもりだなど、こと細かに話してきかせ、ダンテもそれを承諾して彼のあとに従っていよいよ地獄の入口めざして歩きだした。
15
「先生、彼らはなにを苦しんでいるのですか」
ヴィルジリオが答えた。
「簡単にいうと、彼らには滅我の望みがないのでそれを苦しんでいるのだ。彼らは一切のものから見放されているので、一切のものを羨んでいる。世界は彼らの名が人びとの記憶に残るのを許さず、慈悲も正義も彼らをかえりみない。だから、彼らについてこれ以上語るのをやめよう。ただ見て過ぎたまえ」