ノーム・チョムスキー
メディア・コントロール
正義なき民主主義と国際社会
ガイド
書誌
author | ノーム・チョムスキー |
editor | 鈴木主税(訳) |
year | 2003 |
price | 60+tax |
isbn | 4-08-720190-2 |
履歴
editor | 唯野 |
2018.1.8 | 読了 |
2018.1.22 | 公開 |
2018.1.22 | 修正 |
「最も巧妙な管理とは何か ?」という問いがあったとして、あなたはどのようなものを思い浮かべるだろうか。私の答えは決まっていて「当人が管理されていることに気づいていない管理」が最上、もとい最も巧妙な管理であると考える。命令だから嫌々でも従うとか、疑問を感じるけどまあいいやとか、従わないと罰せられるから――などというのは、私にいわせれば管理のやり方として二流である。他人の思惑通りなのだが、当人は自分の意思で決めたつもりになっている、これが最高だ。もちろん、そんなことを馬鹿正直に「自分の意思で決めたつもりでいる」人にいってやる必要はない。そのまま気持ちよくいてもらうのが、お互いにとっても理想的だからだ。
自由主義社会における全体主義の発現というのは、そういうことだと私は考える。ファシズムだとかファッショなんて言葉は古い。今どきの「本当の管理」をしたい連中は、そんな古い手は使わない。つまり、より巧妙なのである。そして、著者も述べているように、そういう管理をしたい側はそのために日夜大変な努力を払っているが、その上で最も力を注いでいるのが本書でも扱われるメディア、そして教育だろう。
著者の主張は明快かつ痛快そのものであるため「その通り」という他はない。安倍首相のやっているメディア対策など本書のお手本そのものであるし、戦後の一貫した教育への国の介入も、同じ論旨で読み解けば何の疑問でもない。要は全てが「従順な国民なり労働者」を作る方向で機能しており、その方が「権力の側にとって都合がいい」からである。だから、そのためであれば(これも本書で触れられている通り)歴史の捏造や書き換えもするし、ヘイトでしかないような発言をする文化人(?)を野放しにできたりもする。
こういうことは、逆にメディアでタブーになっている事柄を整理してみるとよくわかる。メディア対策の根幹を成す電通のような広告代理店ネタ、国益に関わるようなトヨタなど大企業暴露ネタ、政教分離に反しながら与党に収まっている創価学会ネタ、身内の犯罪では隠蔽に走る警察犯罪ネタ、昭和天皇の戦争責任に始まる皇室ネタ、権利を利権にしてむさぼっている同和ネタなど、何が報道されていないかによって、逆にそれがよくわかる。しかし、そのためには、そういう視点や疑問を持つものの見方が必要であるが、そういう疑問の芽を摘むことこそが本書の指摘するメディア対策なのである。
私の思うにこの呪縛を解くのはそれほど難しいことではない。それには、もっど身近で素朴な疑問の心を失わないだけでいい。例えば首相と知り合いというだけで大学や教育機関を格安に誘致できしまうのは変だ !、それに対して公職の立場の人間がきちんと回答しないのは変だ ! という当たり前の疑問こそが突破口になりえる。そのために、皆がチョムスキーのような高潔な人間である必要はない。しかし啓発の書として本書が現代社会の最も深い闇のひとつを暴いているのは事実であり一読に値する。
抄録
11-12
民主主義社会に関する一つの概念は、一般の人びとが自分たちの問題を自分たちで考え、その決定にそれなりの影響をおよぼせる手段をもっていて、情報へのアクセスが開かれている環境にある社会ということである。民主主義という言葉を辞書で引いてみれば、おそらくそのような定義が書かれているはずだ。
そして民主主義社会のもう一つの概念は、一般の人びとを彼ら自身の問題に決してかかわらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間のあいだだけで厳重に管理しておかなければならないとするものだ。
そんな民主主義の概念があるかと思われるかもしれないが、実のところ、優勢なのはこちらのほうだと理解しておくべきだろう。これは現在にかぎったことではない。これ考えは昔から実行されてきただけでなく、理論的にも通用してきた。一七世紀のイギリスとに起こった初期の民主主義革命にも、この考え方が示されていた。
15
その思惑は当たった。みごとに当たった。そして、これが一つの教訓となったのである。国家による組織的宣伝は、それが教育ある人びとに支持されて、反論し難くなったら、非常に大きな効果を生む。この教訓は、のちにヒトラーをはじめとして多くの者が学び、今日にいあたるまで踏襲されてきている。