ドナルド・C・ゴース, ジェラルド・M・ワインバーグ
ライト、ついてますか
―問題発見の人間学
ガイド
書誌
author | ドナルド・C・ゴース, ジェラルド・M・ワインバーグ |
editor | 木村泉(訳) |
publisher | 共立出版 |
year | 1987 |
price | 2,000+tax |
isbn | 320-02368-4 |
履歴
editor | 唯野 |
2002.6.21 | 読了 |
2002.8.13 | 公開 |
2002.8.20 | 修正 |
2013.3.21 | 修正 |
2013.04.05 | 修正 |
2020.2.25 | 文字化け修正 |
副題にもある通り「問題発見」を扱った本。世に何らかの問題解決を謳った本はそれこそいくらでもあるが、本書は「何が本当の問題なのか」という問題そのものの中味、もっといえば問題認識のあり方と問題へ取り組む際の姿勢に着目した本である。
これは即ち訳者が前口上として述べるように「学校では問題を解くことを教わる。だが問題は、解くより発見する方がずっとむずかしく、ずっと面白い。実人生で本当にものをいうのはそこなのだ」という通り、いくら自分が問題と思っているものでも、その本質を見誤っていれば解決策も的外れとなり効を成さないということである。ところが、世上はもちろん自分自身を顧みても「問題」であふれかえっているにもかかわらず、意外に本書の類書と呼べるものは少ない。これは一種の盲点でもあるのだろうが、そのような発想の転換、「問題」に対するその出発点の部分での重要性の喚起、という意味では貴重な本である。
例えば、プログラムの世界でもプログラムの誤り(バグ)をつぶすためのデバッグという作業がある。このとき、よくいわれていることとして「どこで間違っているのかさえ分かれば問題の大半は解決済」というものがある。つまり、プログラムが正常でないふるまいをしたとき、その真の原因が分かりさえすれば解決策も自ずと導かれるので、問題の原因の把握こそが肝になるということを指している。
もちろん、これは私に取っての卑近な例だが、別にこれは対人関係や個人の悩みのようなものに至るまで「問題」としては同様である。だから、この本は問題解決のためのケースバイケースを示すわけではない。あくまでも問題認識において、このような発想、注意点があるのだというサジェスチョンを与えるものである。なぜなら、問題への関わり方が、そのまま問題解決を行う上での行動としても現れることになるからだ。
つまり、私から見た本書の一番のメッセージは「問題解決以上に問題発見に意識的であることの重要性。そして、それは自分で行わなければならない」という点にある。言い換えればこうだ。問題解決の手段を自分以外の人間に委任するということはありえるが、その結論を導くための問題認識は自分でなければ行えないということである。
ちなみに著者はコンピュータの世界の上流工程(要求分析)レベルでの著作の多い人だが、本書は内容的に情報産業の人でなければ読み進められないというものではない。例も非常に一般的で、挿絵も豊富、その上厚くもなく読みやすい本である。第三書館辺りの出していた絵解き本シリーズ(名前が出てこないが、マルクスとか原爆とかいろいろあった)に近い作り、といえば分かる人なら分かるだろう。
抄録
4
われわれは腹の中に問題を解きたいという自然の欲求をもっているために、どうやらせっかちに解答に飛び込んでしまったようだ。たぶん答をいう前に、2、3 の問いを発した方が賢明であろう。
だがそれはどういう種類の問いか ? それは誰にとって問題なのか、何が問題なのか、ないしは問題とは何か、というのがそれである。
7
実際問題としては、自然発生的日常的な問題を、曖昧さを含まない一つただ一つの形で定義することなど不可能である。だが一方、問題についての何らかの共通理解がなかったら、解答を出してみたところで、まず間違いなく間違った問題に対する解答と成り終わる。たいていの場合それは、一番声を出した人の問題、または一番上手にしゃべった人の問題であるにすぎない。-/-
他人の問題を解くことを問題としてもっている問題解決予備軍にとって、最良の手がかりは、精神的に単数形から複数形への切り換えをすることである。つまり問題解決者であることをやめて、問題群解決者になるのである。または、もしそんな言葉は発音しかねる、ということなら問題群の解決者といいなおしてもいい。
この精神的切り換えの練習をするには、早い時期から次の問いに答えようとしてみるのがよい。
問題を抱えているのは誰か ?
そして、それは自分だという人ごとに、