ロジェ・カイヨワ
遊びと人間
ガイド
遊びをアゴン:競争、アレア:運、ミミクリ:模倣、イリンクス:眩暈で類型化したカイヨワの主著
書誌
author | ロジェ・カイヨワ |
editor | 多田道太郎・塚崎幹夫(訳) |
publisher | 講談社学術文庫 |
year | 1990 |
price | 1000 |
isbn | 4-06-158920-2 |
履歴
editor | 唯野 |
2004.4.6 | 読了 |
2022.1.11 | 公開 |
カイヨワの主著であり、本書の中でも触れられている通り、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を下敷きとしつつ、それを肯定的、批判的の両面から継承し、人間にとっての「遊び」の類型化(アゴン:競争、アレア:運、ミミクリ:模倣、イリンクス:眩暈)と、それに基づく諸要素の関係について述べている。
著名なため、ほぼ古典といってよい本であるが、それでもホイジンガでは提起しえなかった遊びにおける「運」と「眩暈」という概念の抽出は慧眼だと思う。特に眩暈が現代社会の娯楽に与えている意義の考察は以下の一文を紐解くまでもなく極めて興味深い。
-/-だが、これら多数の夢みる人びとのうち、いかに多くが、最初の試練で膝を屈してしまうことか。いったい、どのくらいの人がその困難に取りくむのか。どれほどの人数が、いつかそれに挑戦したいと本気で考えているのか。いや、だからこそ、ほとんどすべての人が「委任(プロキュラシオン)」により、映画や小説の主人公の仲介により、いやむしろ、スターとかチャンピオンとかの現に存在する馴染みぶかい人物の仲介により、勝利する方を選ぶのである。-/-(p203)
こうした皮相で漠然とした同一化、しかし永続的で、執拗で、普遍的な同一化は、民主主義社会の重要な代償的調整機構の一つとなる。多数者にとっては、陰気で単調で退屈な生活から気をまぎらし、自分を欺くにはこんな幻想しかないのである。-/-(p204)
だからこそテレビゲームのようなものは悪でもなんでもなく、硬直化した現代社会において身近に仮面としての別人(今ならアバターといった方が早いか)と眩暈(としての興奮、プレイヤーの満足感)を与えるという、逆に必要不可欠な側面を引き出せることにもなる。香川県のテレビゲーム規制条例などはあまりにも馬鹿馬鹿しいが、現代社会科学の古典くらいは先に読んでみてほしいものである。
なお、ホイジンガとカイヨワの関係については訳者による詳しい解説があり、それによるとカイヨワはホイジンガを否定しているように見えて必ずしもそうではないというような指摘がされている。
なお機会があれば、後はやはり『聖なるものの社会学』を読んでみたいところであるが...
抄録
3
本書は一九五八年に出版された。これはシラーの予言者的直観とJ・ホイジンガのみごとな分析『ホモ・ルーデンス』のあとを受けつぐものである。これは、遊びの体系的な分類の試みである。遊びの研究が明らかにしたその四つの基本的範疇、いいかえればその根本的動機(競争、運に身をまかせること、模擬あるいは表現、眩暈と失神)が文明にどのような痕跡を残しているかを確証しようとつとめたのが本書である。さらに、遊びの影響の明白なスポーツや演劇のような分野においてのみでなく、社会生活全般の動機づけともろもろの野心を規定し、特徴づけ、表現してる諸制度の中にまで立ちいって、文化の発達それ自体を解明しようとしたものである。共同社会がそれぞれ固有の様式を獲得するのは、その慣習あるいは規則によってであるが、本書は遊びをこれらの慣習あるいは規則の理想的な像、すなわち夾雑物(きょうざつぶつ)から切り離された、純粋な、完全な像として描き出したものである。
日本版への序文より。