quino (全2話)
quino (キノ)は ポエ山氏による Flash を使ったアニメーション作品である。全2話でブロードバンド環境でないとつらいコンテンツだが、非常によいできであり、一種の短編映画といってよいクオリティがある。
私はマルチメディア方面全般に疎いので、現実に Flash でどこまでのことができるのかは分からない。しかし、それを抜きにしても全体の構成、演出を含めて相当なものだと思う。という以前に私の場合、Flash とはあくまでも簡単な Web の動画コンテンツ作成用ツールだと勝手に思い込んでいた部分があり、ツール自身の奥行きそのものをちゃんと理解していなかったということである。
それだけに、逆にいうと「こういう方向性があったのか」という意味での衝撃は相当なものであって、そのまま何度も見返してしまった。私は読書でも何でも自分がそれまでに持っていた何らかの既成事実なり価値観に新しい見方を与えてくれるものこそが、本当におもしろいものだと思っているが、その前提で行く限り本作は立派に「おもしろい」といってよい。
そして、その一方で考えさせられたのは、本当にマルチメディア・コンテンツというものが個人でも作れる時代になったのだな――ということである。ちょうど今年は 「ほしのこえ」 という個人制作のアニメーション映画が話題になったが、25 分のアニメが約 1 年間で完成されたという事実には注目すべき点があるように思う。(内容は見ていないので評価できませんが...)
だから、私が思ったのは次のようなことだった。恐らく、今後もパソコンや携帯電話は新しい機能を追加していくだろうし、新しいハードウェアを利用し、よりセキュアでロバスト(堅牢)な現在でいえば WS、メインフレーム級のハイエンドな機能を盛り込んでいくことだろう。しかしながら、パソコンなり携帯電話というものの進化する姿としては、結局のところ個々の機能云々というよりは、単にエンドユーザ個人にとって「ひとりで可能なこと」の幅を広げる方向にしか進化していかないのではないかということである。
例えばパソコンにおけるインターネット、MP3 の編集。携帯電話における i-mode、カメラの撮影。個々の機能としてみれば確かに機能として独立させることもできるが、より広い視野で捉えると、それは「ユーザ個人でできること」の拡大にほかならない。つまり、そこから見受けられるのは a) 従来の共同作業に対する独立性 b) 個人で完結できることの増大が消費対象になりえる という点である。もっといえば a は個人化社会の進展を、b はそれが既に現在の消費社会の一特性となっていることを示している。
むろん、私は単純にパソコンが個人の道具としてだけで完結するものだとは思っていない。インターネットや携帯電話での主要な用途が「コミュニケーション」にあることは事実であるし、個人で作成されたものでも他人という視聴者抜きには作品を公にすることはできない。しかしながら、その一方で現在の社会が個としてのアイデンティティを個人に要求し続ける以上、このような方向性は一種の必然でもあると思う。今はまだその正否を論じる段階なのかもしれないが、恐らくはかつてのロックやおたくと同様、それもそのうち当り前となるのではなかろうか。
それゆえ、これらを否定するのは、あまり意味のないことと思われる。重要なのはそれらを機能としてだけで捉えるのではなく、結果としてのコンテンツから捉えるということ、またはコンテンツの生み出されるに至る過程ではないだろうか ? なぜなら、そのような進化は進化としても、結局のところパソコンなり携帯電話そのものが「ツール」としての域を脱するわけではないと私は考えるからである。
# 商売としていうなら「それが個人にとってどういう可能性を演出し、
# どういうニーズを生み出すか」への着目の仕方ということです。
# つまり、意味を持つのはツール自身よりもその先にあるものではないかと。