武相荘
履歴
editor | 唯野 |
2020.2.8 | 行った |
2020.2.19 | 公開 |
2020.2.21 | 修正 |
2020.2.24 | 修正 |
白洲次郎・正子夫妻の旧宅である武相荘(ぶあいそう)に行ってきました。いずれの白洲ファンにとっても一度は足を運びたい場所ですが、周囲に緑もあるものの入口付近にはユニクロやモスバーガーがあり、当初は疎開で移住した田舎だったのでしょうが、現在では町田の住宅街に取り残された場所という感があります。
武相荘という名前が武蔵と相模の国境、また不愛想をもじったものであることは以前から知ってしましたが、こういう辺りにも人柄が出るのかもしれません。下の写真にある通り梅が咲いていました。
建物は良くも悪くも「あえて手を加えていない古民家」です。茅葺き屋根で、屋内の作りも数寄屋のような特別さはありません。説明にも細かい使い勝手より、民家の田の字プランによるフレキシブルさを優先した旨がありました。内部は二人にゆかりの品々や書斎などが公開されていますが、やっていたことが随分と違う夫婦でありながら、逆に住まいに手を加えようとしなかった辺りでは共通していたということでしょうか。本棚の書籍も折口信夫全集などがある辺り時代を感じます。
もっとも、ふたりとも元をただせば「いいところ」の出であり、特に白洲次郎が「ボンボン」で終わらずに済んだのはイギリス留学のおかげともいわれますが、当時の庶民では留学はむろん、車を持つことも難しかったことを考えると、何がどう転ぶか分からないものです。やはり英国を通じて身につけたのであろう「プリンシプル」のおかげなのかもしれません。
実は私が白洲次郎で尊敬するのは、敗戦を予期していたとか、GHQと互角に渡り合ったとか、平和憲法の制定に携わったとかいう成し遂げたことよりも、あくまで吉田茂のブレーンとして政界からの引き際を知っていたということです。功成り名遂げるのはよいのですが、そうなればなるほど、それでいながら自然体でいて身を引くということは、とても難しい。憲法の制定についても、彼自身はそれほど多くのことを語っているわけではありません。しかし結果的に「いいもの」ができたのなら、それでいいじゃないか、という身軽さがあります。また、自身が関わったことに対して功を持ち出すこともしなかった。
要は見てくれではなく中身が「紳士」だったということです。そして、そのための行動規範が彼のいう「プリンシプル」だったのではないかと思います。
ちなみに母屋とは別に入口を兼ねたグッズの販売所やレストランなどもあります。私は海老カレーを食べてきました。もちろんおいしかったのですが、入場料も含めて値段は高めです。とはいえ、以前は駐車場がなかったのですが、現在は駐車場もあり車でも来やすくなったとはいえると思います。団体ではないのに途切れずに人が来ていたのには根強い人気を感じました。
リソース
読んだ > 白洲次郎「プリンシプルのない日本」
読んだ > 青柳恵介「風の男 白洲次郎」
読んだ > 白洲正子、青柳恵介、赤瀬川源平、前登志夫 他「白洲正子〝ほんもの〟の生活」