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時計のない生活

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editor唯野
2000.9.25公開
2000.11.3修正

毎日が退屈な人にとっておきの「冒険」を紹介いたします。それは「時計のない生活」です。毎日の意味ががらりと変わるのみならず、価値観の変化にまで影響を与えてくれる、現代社会でしかできないスリリングな日々があなたを待っています !

とまあ、宣伝文句ふうに書き出してみましたが、別に冗談でも何でもなく「時計のない生活」から得るものは多いです。というのも私は学生時代にそれをやったことがあるからです。社会人となった現在にそんな恐ろしいことはできませんが(そういう事実ひとつを取ってみても我々にとっての「時間」というものが見えてきます)、エンデの『モモ』を引き合いに出すまでもなく、それくらいに我々の日常における時間の持つ意味は大きいからです。

いちいち詳しくは書きませんが、朝に目が覚めてもすごく不安です。そして、食事を摂る時間ひとつを取ってみても固定されなくなります。到着時刻を考えずに外出するだけでも何かが違い、むしろ逆にあらゆる日常生活の場面で、いかに「時計」があるかを痛感せざるを得なくなります。結果、そういったカルチャーギャップの数々は「時計のある生活」に戻ったとしても、しばらくすぐには元に戻りません。しかし、それゆえにこそ次のような当り前のことの中身が見えてくるのです。

例えば、電車の到着時刻が 2-3 分ずれただけで納得がいかず、結局は 5 分と変わりはしないのに車のアクセルを踏もうとする。また、出かけてから時計を付け忘れたことに気付いただけで動揺し、テレビを見ようとするだけで番組の時間を意識せずにはいられない。それにどれほどの意味があるのかを考えることなく、ただ当たり前のようにそう感じてしまう日常に対してです。もちろん、実際のビジネス社会において時間の持つ意味の重要性は今更いうまでもありません。しかしながら、それとはちょっと違う見方のできることが意外と大きいというか、つまりは「ゆとり」といったものにつながるように私は思うのです。

もちろん私も元を正せば、特別な意図があって「時計のない生活」を送った訳ではありません。(当然ながら一時的なものでした。)むしろ、学生時代の怠惰な生活の延長線上から始めたのいうのが正直なところです。しかし、今思うと、あれは貴重な経験だったように思います。恐らく、今の社会では子どもにおいてさえ、そういう余裕がないのではないかと思います。なぜなら、学校自体が「時間」という枠の中でスケジューリングされ、授業がおもしろくない人でもチャイムが鳴るのを待っているという意味では時間に縛られているからです。(そして「家庭」がそういう延長線上のものとなるのは自明のことです。)当然、そういう中では私自身もそうでしたが、授業がおもしろくないことは感じても、より根本的な「時間そのもの」への疑問は出にくいものです。だから、そこへの対応というものも硬直したものであることが多く、教師の側でも自分自身だって同じものに縛られているであろうことへの想像力が及びにくいように思います。この場合、そういう意識の差こそが溝を生む根本原因であるにもかかわらずです。

しかしながら、こういう時間に縛られた我々にとって「それではそこから解放されさえすればよいのか ?」といえば、それはあまりにも都合のよい答えというべきでしょう。なぜなら、私自身の例を持ち出すまでもなく「物事への締切のない毎日」は生活のメリハリをなくし怠惰なものしか生まないからです。普段が時間に忠実なものであるからこそ「時計のない生活」も現代社会への問題を照らし出すわけであって、その点に着眼する機会にこそ最大の意義があるというべきだからです。

それでは「時計のない生活」を通じて我々が最も考えるべきは何にあるのでしょうか。私はそれを「夢中になることの重要性への自覚」だと考えます。人間が時間を忘れて何かをするというのは、何かに夢中になっているときです。そして、それは裏返せば「夢中になれないときに時間が介在してくる」ということでもあります。要はそのバランスが取れているかどうかです。「毎日がおもしろくない」人ほど「夢中になれるものがない」、即ち「時間ばかりを気にして時間に従属している」ように思えるからです。

要するに何がいいたいのかというと、例えば「仕事がおもしろくない人」というのは、「仕事の中に夢中になれる要素がない」か「夢中になれるものを持った仕事を選ばなかった」ということであり、それは他の物事でも同様なのではないかということです。なぜなら、それさえもが自分にとっての「夢中になれる何か」を考えるための要素といえるのであれば、「時間からの自由の獲得」はそれを突き詰めることによってしか得られないと私は思うからです。