「流行」の現在
「団子三兄弟」なる歌がはやっています。これは流行というものの今日におけるかたちを考えるとき、なかなか象徴的なように思いました。というわけで、以下ではこれを「流行の主体が極めて低年齢化しつつある」という特徴に注目して考察してみようと思います。
まず、近年では確実に「流行」の主体となる年代の低下を挙げることができます。これは、かつての高度成長期までの「流行」が大人を巻き込んだものであり、広く全社会的な現象であったことの対比としても説明可能です。つまり、中流意識が大勢を占め「誰かと違うこと」がネガティブな意味を持っていた時代までとの対比――ということです。逆にいうと、個人主義が広がり差異がポジティブな意味を持つようになった80年代以降では、根本的に旧来の意味での「流行」はありえなくなりました。あるのはマスコミによる「流行の演出」だけで、「誰かがやっているから私も」ということは、局所的にはなりえても全社会的なものとはなりえなくなりました。なぜなら、そこでは「誰もがやっているから逆にやらない」ということが、ひとつの立場として存在できるようになったからです。もっというと、これが「価値観が相対化している」ということになります。
この結果、必然的に「流行」の範囲はせばめられ、その主体となりえるのは成年以前の――それも限られた年代間の――ものとなりました。これは、「差異」を前提とした個性化を身に付ける以前の世代...即ち未成年層ということです。これを現実に即していえば、「ポケモン」「たまごっち」といった流行ものや流行の主体が女子高生にあるといった論調などは皆そうであるということができます。
では次に、このような「若年層発の流行」はどのような現象を引き起こしているのでしょうか。まずいえるのは、今日では大人の側がこの「若年発」の流行に付随している点です。これは差異化の進展によって共同意識の希薄になりがちな「大人」にとって、むしろこの若年層の流行への同化なり反発なりという行動を取ることが、実は間接的な連帯感の獲得へつながっているのだということです。つまり、「最近の若い者は」という言質を含めた反応そのものが、個々の人間にとっての間接的な共同意識=社会化、をもたらしているのだということです。ですから、視点をここに置く限り若者の流行への賛成/反対は同じ意味を持っているのだということになります。
そして当然ながら、このような社会化の役割を意識的/無意識的にせよ最大限に発現しているのがマスコミということになります。いうなれば、流行の主体である若者と、それ以外の大人との間を媒介するもの...としてです。マスコミはこうして「規範なき時代の媒介者」としてこそ大きな役割を果たしていることになります。ここで注目すべきは、マスコミが規範の崩壊者でもなければ創造者でもない第三の立場として存在している点でしょう。
ですから、逆に若年層にとっては、そこで共有される「流行の経験」こそが淡い世代間における記憶/連帯意識の拠り所として存在することになります。流行の範囲の縮小は必然的に世代意識の細分化を引き起こしているともいえるからです。10年がひとつの単位だったのが、5年、3年というふうに世代感覚として共有できる範囲をもせばめていく。そのときに、世代としての連帯意識になりえるものは何なのか ? やはり、それは同じ流行への熱中のような側面でしょう。だとすれば、現代人が大人になっても「子ども的趣味」を捨て去ることができない理由のひとつを、この点から説明することができるかもしれません。つまり、そこでの記憶なり話題が「社会化」のための重要な意味を持つ現在においては、それをおいそれとは捨て去ることができない――という意味によってです。また、広い範囲での新たな流行という現象が起こりにくいからこそリバイバルというものが繰り返される、ということもできるように思います。
このため、流行の主体が個人意識が未分化である=差異化の洗礼を受けていない 若年層に存在し続ける間は、今後も同じように子どもの間での流行をとっかかりとした社会へのアプローチ、即ち大人の子どもに対する依存体質もまた続くように私は考えます。それは、こと「流行」おいては子どもがキャスティングボードを握る社会であるがゆえの必然であり、それこそが「流行」の残された地点であるがゆえの必然だということによってです。