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週刊金曜日の創刊 10 周年に寄せて

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editor唯野
2003.11.11公開
2004.7.15修正

何だかんだと知らぬ間に週刊金曜日が創刊 10 周年を迎えた。まあ、何はともあれお疲れ様といってよいと思う。マイナー雑誌の割に 10 年続いたのはひとつの成果といってよいだろう。

しかしながら、それでは私が最近の週刊金曜日を熱心に読んでいるかといえば、必ずしもそうではない。むしろ、最近では仕事が忙しいと他の雑誌も含め封さえ切らないことが少なくなく、とても熱心な読者とはいいがたい。しかし、個人的にいって週刊金曜日に関してはそれでも問題ないと思っている。

確かに私も週刊金曜日に対して思うところが全くないといえば嘘になる。結局のところ古い意味での左翼体質を脱しきれていないし、それは取り上げられる記事の内容にも当然ながらあらわれている。市民運動や投書に項を割いているのは評価できるけれども、論旨を安易に予測できてしまうものが多いのも事実だ。

だが、私がそれらを認めた上でなお本誌の読者であるのは、これが広告に依存しない現状批判を軸とした雑誌だからである。昨今では特に雑誌などが典型的であるけれども、広告主に都合の悪い記事は載せず、プレスリリースを活字にしただけのような提灯記事ばかりというものが少なくない。これはジャンルを問わず、コンピュータ雑誌などでも同様である。というより、読者ではなくまず広告主ありきで雑誌自体が企画されているのだから、これは自明というべきである。

むろん、雑誌も利益を出さなければ存続できない以上、採算を度外視しろなどというつもりは毛頭ない。というよりも、この問題に関していうならば、要は読み手がそのようなご都合主義の雑誌を淘汰すればいいだけの話だ。しかしながら、そういう中にあって週刊誌として、その経営基盤を広告ではなく読者からの定期購読料主体としている週刊金曜日は素直に賞賛に値する。なぜなら、それによって雑誌記事はスポンサーにおもねる必要がなくなり、記事の自由を獲得するからだ。

それゆえ、結局のところ私にとっての週刊金曜日とは、その存在にこそ意義があるということになる。また、その中で(それがどの程度のものであるかの評価は難しいが)タブーなき批判を掲げている点で評価できる。結局のところ、使い古された言葉でいえば第四権力としてのマスメディアが権力に対するチェックと批判を行わないならば、その存在意義は半減する。いや、半減以下というのが正しい。私個人としては、個人としても批判的でないものは知性の名に値しないという上野千鶴子から得た言葉に強く同意するところだが、それがより社会的強者としてのマスメディアに適用されないとするならば、何のためのマスメディアであろうか。

週刊金曜日がこの先どうなるかは分からないが、そういう志の部分は今後も残して欲しいものだと思う。但し、その左翼的体質を脱しきれず、敷居だけを高くして影響力を失っていくのであれば、それは自業自得というべきだろう。