改革の本丸
小泉総理が政治生命をかけたという郵政民営化法案が国会を通過した。いったんは参院で法案が否決されたものの、衆院を即座に解散すると、選挙戦では郵政民営化一本に的を絞り自民党は記録的な大勝となった。そして、その「民意」を反映し、選挙後の国会では圧倒的多数で法案が成立した。
とはいえ、議院内閣制的にいえば、内閣の威信をかけた法案が否決された場合、それは衆院解散というよりも内閣総辞職というのがセオリーである。おまけに私にいわせてもらえば、先の選挙において小泉自民党は郵政民営化しか争点としなかったのであるから、それ以外のことはやってはいけない。というより法案の成立した時点で、再び衆院を解散し、増税でも共謀罪でも同様に国民に決を問うべきであろう。自分の都合の悪いときには国会を解散し刺客まで送り込んでおきながら、自分に都合のよい絶対多数の与党となるや否や、好き放題になるのだとすれば何をかいわんやである。
そもそも、この国では 90 年代のバブル崩壊以降、政治の世界では「改革」という言葉ばかりが先行したものの、結果的に本当の改革といえるものがどれほどあったであろうか ? 首相の変わるたびに「改革の本丸」はころころ変わり、それが今は郵政民営化というだけなのである。中央省庁の再編を「改革の本丸」とした橋本元首相を顧みれば、当の本人は賄賂(「政治献金」て書かないと駄目なのかな :-))をもらっていたわけであり、その再編により「改革」されたはずの役人は天下りとセットになった橋梁談合を繰り返していた。ところが小泉首相はといえば、それだけの実態がありながら、天下りの禁止には極めて消極的な態度しか取っていない。
この国にとっての本当の「改革の本丸」は自明である。それは国家が破綻しかねないほど大きくなりながら今この瞬間にも増え続けている国の借金(国債)と、国の歳出面でとうに破綻をきたしている国民年金であり、そのための改革を否定する各種の既得権益に対する構造改革──これ以外にはありえない。しかしながら、歴代の首相たちは結局のところ真の「改革の本丸」を正面からは取り上げず、二次的な問題ばかりを「改革」と唱えてきた。だから「改革の本丸」は時の首相により都合よく書き換えられ、結果も必然的に表面的な変化しか伴わなかったのである。
これは具体的に数字で見ても明らかだ。現在の国の財政赤字は約 800 兆円にまで膨れ上がっているが、このうちの約 250 兆円は小泉政権の 4 年間によるものである。財政赤字を改善するどころか、加速度的に悪化させたのが小泉政権そのものだったのだ。そして国の負担する年金の金額は今や約 40 兆円に及び、それはこの国の主な収入である税収の約 45 兆円に匹敵するまでとなっている。つまり、今の日本では国の税収は年金だけでそのあらかたが消えてしまい、本来の経費は全て国債で賄っているといってよい状況なのである。常識的に考えてみても、これがいかに異常な事態であるかは自明であろう。私にいわせれば小泉首相は「刺客」の送る相手を間違えているとしかいいようがない。
しかし、だからといってこの改革を今の自民党、そして野党第一党たる民主党に期待できるのかといえば、これまた極めて疑問である。旧態依然の共産党などに比べてましな部分もあるが、首尾一貫性のなさではその共産党にすら劣る。そもそも今回の選挙において自民党が大勝したとはいっても、それは小選挙区制という「選挙制度」に負う部分が非常に大きい。
政党別の本来の得票率でいえば民主党も割と健闘している。しかしながら、そのような民意とは裏腹に得票率トップの候補ばかりが当選してしまう小選挙区制では、実際の政党別の得票率が議席としても反映されることは起きにくい。この小選挙区制の欠点はその導入時にも指摘されていたことであるが、あのとき反対派に対して「守旧派」のレッテルを貼ってきたのが今日の民主党を含む元自民党であることを考えると、私には今回の民主党の敗北は自業自得としか映らないのである。
小泉氏がこのまま自身の人気を優先し、それこそ自民党の解体をも覚悟してこれらの財政改革に取り組まないとするならば、そのような改革では、またもや表面的なもの、郵政民営化においても単なる地方の切り捨てで終わることだろう。自身の基盤も含めたところでの「痛みを伴う改革」ならばまだしも、靖国参拝ひとつを見ても信念より人気を優先する首相では望み薄である。靖国参拝がそれほど首相にとっての信念というのであれば、8.15 に参拝し諸外国との関係悪化も含めたところで選挙に臨むのが筋だったからだ。