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戦後教育と経済政策

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editor唯野
1998.9.17公開
2000.12.10修正
2020.2.25文字化け修正

戦後教育というものを大局的に見たときに、その分岐点が 70 年代頃にあったことは事実だと思います。これは、日本の戦後をものすごく大雑把に整理した場合のあらゆる局面にいえることで、60 年代の高度成長が低成長に変わり、それまでの矛盾が一挙に噴出して顕在化するのが 70 年代だからです。公害問題、政治の金権体質など全ては 70 年代頃におおよその端を発しています。ところが、主に政治の側ではこれに対して有効な手立てを打てないままに、状況に混迷の度を深めるだけで放置してしまいました。

しかし、そうやって考えた場合に「じゃあ、それ以前の教育が必ずしも正しかったのか」といえば私は少々疑問です。それには戦後全体の教育の体質というものの検証が必要だと思います。

周知のように戦後の初期というのは反動政治が行われました。しかし、これが 60 年安保などの国民の頑強な反対を受けたことで自民党の側でも限界を感じ、その矛先を経済成長に変えることで反撃をかわしていきます。有名な「所得倍増計画」や「全総」などがそれですが、これはいいかえれば、国民の支持を取り付けることが同時に国民の目をこの点に向けさせる効果を持っていたといえるからです。

それでは、そういう中で教育政策はどう位置づけられていたのか。それはひとことでいってしまえば、教育政策の経済政策の部分化であり取り込みでした。経済成長が至上命題なわけですから、これは考えてみれば当たり前のことです。つまり教育が高度成長を支える「賃金の割に高度な(=具体的には中等レベルの知力を持った)労働者」を経済界に提供することで日本の輸出産業が一気に花開いていきます。そして、そこに当時の日本人の禁欲的な倫理観や世界情勢などが組み合わさることで「奇跡の復興」を成し遂げたわけです。

しかしながら、その傾向は70年代に産業構造が変換した後でも変わることがありませんでした。むしろ、状況はそれをより強化する方向で進みました。というのも(今日にもおける)「段階的に労働者を提供する」という形態は、企業側での年功序列や終身雇用制度、学校側での階段型の制度という双方が噛み合わなければ存在できないからです。「教育は次代を担う人材を育成する」というのが一大原則であることはその通りですが、それではそもそもの学校とは何のために作られてきたのか ? というレベルまで視点を掘り下げて考えてみた場合、「次代を担う人材」が「現在の社会の要求する人材」に極めて近くなってくるのは、これまた自明のことだと思います。これが日本 = 企業国家であば、高度成長を経てそういう傾向が強まってきたというのはある種の必然であり、その伏線から考えるのであれば問題の根はむしろ 60 年代 = 高度成長の時代にあったように私は思います。

むろん、私は「経済成長そのものが悪いのだ」ということがいいたいのではありません。そうではなくて、その後の社会変化に対応した制度を用意しなければならないという簡単なことをいっているに過ぎません。具体的には、教育政策における経済政策との分離や地方分権に伴う地域密着型の教育制度の導入――などといったものが教育政策の独立性を得るという観点において必要なのだと私は考えます。理想だけを追う教育でも駄目ですが、一方で経済界や中央官庁が教育政策に過度の注文をつけたりする必要も基本的にはないと思うからです。