暇に関する問題
今回は「暇」にまつわる問題を考える。なぜなら、余暇の増大や生活にゆとりのあること――これは福祉国家(これ自体が半ば死語か ?)を標榜するならば常に求められてきたスローガンであるが、それではそれが実現された後のことを我々はどの程度考えてきたのだろうか...と近頃よく思うからである。
例えば、日本の労働者が働きすぎであるから日本人は働き蜂であるとか、子どもが勉強に追われているから週休二日制を導入しようとか、この手の話題は言いだせばきりがない。そして、それがどの程度に達成されてきたのかの判断は識者に委ねるとして、それが確実に増大してきたということは事実だろう。それならば、より人々は自分の生きがいなり家族なりのために時間を使うことができ、社会のストレスも低減しているはずなのに、そうならないのはなぜなのか。
17 歳の凶悪事件だ何だとマスコミはセンセーショナルに事件を報道する。しかし、私の思うに要するに彼らは自分にできた「暇」をそういうことに使ったというだけなのではないか、と思えるのだ。つまりは単なる「暇つぶしの結果」としてである。そう考えれば事件の背後の薄っぺらさも一応の説明ができる。つまりは日常の生活そのものが暇つぶしの連続となった結果、そこでは行為の動機付けが希薄になると同時に、人間の凶悪な側面の出ることにおける境界もぼやけ、その非日常性が逆に暇つぶしのために意味を持ってしまう、そんなふうに思えるのである。
しかしながら、そうやって考えてみると、実はもっと暇をもてあましているのは、そうやってセンセーショナルに報道された事件のワイドショーなりを喜んで見ている大人の側である。口々に若者はけしからんといい規制がどうのこうのというが、文句をいうだけで何ら建設的であるわけでもない。それは問題が繰り返されたときの反応に変化がないことからも理解できる。つまり、大人たちも暇つぶしのためにワイドショーを見ているのであり、そういう意味において根は同じである。いや、むしろ他人の不幸で自らの暇つぶしを正当化しているのだから、より狡猾というべきか。
パチンコを始めとするギャンブル、テレビゲーム、カラオケ...皆、考えてみれば暇つぶしのための消費文化といえなくもない。しかし、いつの間に、娯楽は暇つぶしのための方便に成り下がってしまったのだろうか。もちろん、私はこれらをなくせなどという馬鹿なことをいうつもりは全くない。個人が自分の時間をどう使おうと、そんなことは各人の問題である。しかしながら、どこかで余暇とそれ以外のものとの間の関係が、おかしくなってきているのではないだろうか。余暇を余暇たらしめるための本来の目的意識なりが、暇つぶしのためのそれに、すりかわっていはしないかということである。
だから、そんな若者に対して奉仕活動を義務付けようなどというのは何の問題の解決にもなりはしない。なぜなら、それは新たな(義務感だけから行われる)暇つぶしの追加であり、あくまでも発想が暇つぶしの代替案以上の意味を持っていないからである。
考えてみれば戦後の日本人は忙しかった。おかげで置いてき忘れたもの、失ってしまったものも少なくない。しかし、はるかに充実感というか、忙しいがゆえのメリハリというものがあったのではないかと思う。確かに人生に暇つぶしのための時間や何かを振り返るための余裕は必要だ。しかし、何のためにその暇があるのかを考えることのない暇つぶしは「余暇の自己目的化」というべきではないだろうか。