大きいことはいいことか ?
今世紀の後半においてテクノロジーの世界では、あるひとつの大きなパラダイム・シフトがありました。それはテクノロジーの意義を測るものさしが(様々な意味における)「大きいこと」だけではなくなり、むしろ「小さいこと」にこそ意味が見出されつつあるという点です。
これはバイオテクノロジーといった先端科学、またコンピュータの世界などにおいて特に顕著です。そして逆に歴史の本を紐解いて、大きな力を持った王が大きな墓を作り、近代においても大きな建物・乗り物が持っていた意味を考えてみれば、これが意外と大きな変化の流れだということは同意を得られることだと思います。
しかし、私がおもしろいと思うのは、その先です。実はこの「小さいこと」が意義を持ちつつあるのは、何もテクノロジーの世界だけに限らなくなりつつあるのではないかと感じるからです。例えば、政治の世界における地方分権や小さな政府、EU における地域内連合のような取り組みはどうでしょうか。従来的な拡大主義・中央集権化とは異なるこれらのアプローチは今や確実にひとつの流れとなっています。むろん、単純な特徴の類似点に注目するだけをもってして、それが社会全体の潮流だなどと結論付けるつもりはありません。しかし、次の点はいえるように思います。それは「個人が社会に対して個人でも手の届く大きさを欲し始めているのではないか」ということです。
確かにインターネットに代表されるような情報社会は個人の処理能力という枠をはるかに超える情報、もっといえば世界を提供してくれます。もちろん、それは非常にスリリングなことでありすごいことです。しかしながら、いうまでもなく情報の量の大きさが質に比例するわけでもない以上、外れを引く可能性も高く(まあ、それが人間社会というものではありますが)、そして何よりもそういう場所ではリアリティというもの自体が拡散しがちです。これは当のインターネット自身が拡大を続けながらも、一方において自己満足のためのツールと化している側面からも明らかです。
そうなると(そうなればなるほど)グローバリゼーションや世界が小さくなることとは別の方向性として、個としての人間が情報の海へアクセスする以前の足元/基盤となる等身大なリアリティという世界の持つ意味が大きくなってくるように思います。つまりは個人の根っことなりえるアイデンティティ、もっといえばそれをかたち作るためのリアリティの必要性ということです。具体化するならば、自分にとって手の届く範囲にある政治への参加(権利の行使)、手の届く範囲にある地域とのかかわり、手の届く範囲にある道具との付き合い――といったものの数々です。
小さいことに意味があるからといって人間の意識までが矮小化してしまっては本末転倒ですが、旧来的な意味での地域共同体というものを解体することで「戦後」を歩んできた現在の我々にとって、そういう新しいリアリティの基盤を得るための方法探しや制度の準備は、今や非常に大きな意味を持ってきているように思います。それはいうなれば「自分探し」ではない、それをもっと具体化した「リアリティの基盤作り」ということです。
それゆえ逆説的にいうと、それが認識されないうちは政治や企業や学校においても拡大化・合併・画一主義といった旧来の「大きいことはいいことだ」という発想/路線に基づく解ばかり提示されていくのでしょう。(もしくは単なる精神論かリアリティの一方的な押しつけ。)ものごとを大局化するばかりが既に解を求める唯一の方法ではなくなっているのだということ、それが今の日本には求められているように思います。