吉川英治
黒田如水
ガイド
書誌
author | 吉川英治 |
publisher | 新潮文庫 |
year | 1959 |
price | 400 |
isbn | 10-115401-5 |
履歴
editor | 唯野 |
2006.6.29 | 読了 |
2006.7.1 | 公開 |
2006.7.3 | 修正 |
久しぶりに時代小説を読んだが、やはりというか吉川英治はおもしろい。本書は黒田官兵衛が中国地方の将来は毛利より信長にあると見て、秀吉に接触し中国攻めの片腕となるも、荒木村重に捕らえられるという辛酸の後、三木城の落ちるまでを描いている。解説にもあるように黒田如水の青年期に重きを置き、人物の成長を追った内容となっている。一気呵成に読んでしまったけれども、以下に引用もした冒頭付近の一節がなかなか慧眼ともいうべき言葉として印象に残った。
抄録
11
全国、どこの城にも、かならず評定の間というものはある。けれどもその評定の間から真の大策らしい大策が生れた例は甚だ少いようだ。多くは形式にながれ、多くは理論にあそび、さもなければ心にもない議決におよそ雷同して、まずこの辺という頃合いを取って散会を告げる。
三人寄れば文殊の知というが、それは少くとも一と一が寄った場合のことで、零と零との会合は百人集まっても零に過ぎない。時代の行くての見えない眼ばかりがたとえ千人寄ってみたところで次の時代を見とおすことは出来ないが、評議となって列座すれば、誰ひとりとして、
(それがしは、めくらである)
と、いう顔はしていない。そのくせ信念もなければ格別の達見も持っては居ないので、ただ自己をつくろうに詭弁と口舌の才を以てすることになる。従って、評議は物々しくばかりなって、徒らに縺(もつ)れ、徒らに横道に入り、またいたずらに末梢的にのみ走って、結局、何回評議をかさねても、衆から一の真も生れず、そしていつまでも埒はあかないという所に陥ちてしまうのだった。